、情は闘争すべき質を以て生れたる元素なれども、其恋愛の域に進む時は、全然平和調美の者となり、知らず知らず一女性の中に円満を画かしむ、情人相対する時は天地に強敵なく、不平も不融和も悉く其席を開きて、真美の天使をして代《かはつ》て坐せしむ。少《わか》き思想の実世界の蹂躙《じうりん》する所となる事多し、特に所謂詩家なる者の想像的脳膸の盛壮なる時に、実世界の攻撃に堪《た》へざるが如き観あるは、止むを得ざるの事実なり。況《いは》んや沈痛凄惻人生を穢土《ゑど》なりとのみ観ずる厭世家の境界に於てをや。曷《いづく》んぞ恋愛なる牙城に拠《よ》る事の多からざるを得んや、曷んぞ恋愛なる者を其実物よりも重大して見る事なきを得んや。恋愛は現在のみならずして、一分は希望に属する者なり、即ち身方《みかた》となり、慰労者となり、半身となるの希望を生ぜしむる者なり。夫れ厭世家は此世に属する者とし言はゞ名誉にもあれ、利得にもあれ、王者の玉冠にもあれ、鉄道王の富栄にもあれ、一の希望を置くところあらざるなり、故にこの世の希望と厭世家とは氷炭相容れざるの中なる可し。然るに恋愛なる一物のみは能く彼の厭世家の呻吟《しんぎん》する胸奥に忍び入る秘訣を有し、奇《く》しくも彼をして多少の希望を起さしむる者なり。情の性は沈静なるを得ざる者なり、其の一たび入るや人の心を攪乱するを以て常とす。況《ま》してや平生激昂しやすき厭世家の想像は、この誠実なる恋愛に遭ひて脆《もろ》くも咄嗟《とつさ》の間に、奇異なる魔力に打ち勝たれ、根もなき希望を醸《かも》し来り、全心を挙げて情の奴とするは見易き道理なり。
恋愛は一たび我を犠牲にすると同時に我れなる「己れ」を写し出す明鏡なり。男女相愛して後始めて社界の真相を知る、細小なる昆虫も全く孤立して己が自由に働かず、人間の相集つて社界を為すや相倚托し、相抱擁するによりて、始めて社界なる者を建成し、維持する事を得るの理も、相愛なる第一階を登つて始めて之を知るを得るなれ。独り棲《す》む中は社界の一分子なる要素全く成立せず、双個相合して始めて社界の一分子となり、社界に対する己れをば明らかに見る事を得るなり。
男女既に合して一となりたる暁には、空行く雲にも顔あるが如く、森に鳴く鳥の声にも悉く調子あるが如く、昨日《きのふ》といふ過去は幾十年を経たる昔日《むかし》の如く、今日《けふ》といふ現在は幾代《いくよ》にも亘る可《べき》実存の如くに感じ、今迄は縁遠かりし社界は急に間近に迫り来り、今迄は深く念頭に掛けざりし儀式も義務も急速に推《お》しかけ来り、俄然其境界を代へしめて、無形より有形に入らしめ、無頓着より細心に移らしめ、社界組織の網繩《まうじよう》に繋がれて不規則規則にはまり、換言すれば想世界より実世界の擒《とりこ》となり、想世界の不覊《ふき》を失ふて実世界の束縛となる、風流家の語を以て之を一言すれば婚姻は人を俗化し了する者なり。然れども俗化するは人をして正常の位地に立たしむる所以《ゆゑん》にして、上帝に対する義務も、人間に対する義務も、古《いにし》へ人《びと》が爛※[#「火+曼」、第4水準2−80−1]たる花に譬《たと》へたる徳義も、人の正当なる地位に立つよりして始めて生ずる者なる可けれ、故に婚姻の人を俗化するは人を真面目ならしむる所以にして、妄想減じ、実想殖ゆるは、人生の正午期に入るの用意を怠らしめざる基ゐなる可けむ。
厭世家が恋愛に対すること常人よりも激切なるの理由、前に既に述べたり。怪しきかな、恋愛の厭世家を眩《げん》せしむるの容易なるが如くに、婚姻は厭世家を失望せしむる事甚だ容易なり。そも/\厭世家なるものは社界の規律に遵《したが》ふこと能はざる者なり、社界を以て家となさゞる者なり、「世に愛せられず、世をも愛せざる者なり」(I love not the world, nor the world me.)繩墨の規矩《きく》に掣肘《せいちう》せらるゝこと能はざる者なり、「普通の快楽は以て快楽と認められざる者なり」(My pleasure is not that of the world, etc.)一言すれば彼等が穢土と罵るこの娑婆に於て、社界といふ組織を為す可き資格を欠ける者なり。故に多くの希望を以て、多くの想像を以て入りたる婚姻の結合は、彼等をして敵地に蹈入らしめたるが如きのみ。彼等が明鏡の裡《うち》に我が真影の写るを見て、益《ます/\》厭世の度を高うすべきも、婚姻の歓楽は彼等を誠信と楽天に導くには力足らぬなり。
彼等は人世を厭離するの思想こそあれ、人世に覊束せられんことは思ひも寄らぬところなり。婚姻が彼等をして一層社界を嫌厭せしめ、一層義務に背かしめ、一層不満を多からしむる者、是を以てなり。かるが故に始《はじめ》に過重なる希望を以て入りたる婚姻は
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