、然れども余は別に説あり、請ふ識者に問はむ。
 合歓綢繆を全うせざるもの詩家の常ながら、特に厭世詩家に多きを見て思ふ所あり。抑《そもそ》も人間の生涯に思想なる者の発萌《はつばう》し来るより、善美を希《ねが》ふて醜悪を忌むは自然の理なり、而して世に熟せず、世の奥に貫かぬ心には、人世の不調子不都合を見初《みそ》むる時に、初理想の甚だ齟齬《そご》せるを感じ、実世界の風物何となく人をして惨惻《さんそく》たらしむ。智識と経験とが相敵視し、妄想と実想とが相争戦する少年の頃に、浮世を怪訝《くわいが》し、厭嫌《えんけん》するの情起り易きは至当の理なりと言ふ可し。人|生《うまれ》ながらにして義務を知るものならず、人生れながらに徳義を知るものならず、義務も徳義も双対的の者にして、社界を透視したる後、「己れ」を明見したるの後に始めて知り得可き者にして、義務徳義を弁ぜざる純樸なる少年の思想が、始めて複雑解し難き社界の秘奥に接する時に、誰れか能《よ》く厭世思想を胎生せざるを得んや。誠信は以て厭世思想にかつ事を得べし、然れども誠信なる者は真《まこと》に難事にして、ポーロの如き大聖すら、嗚呼われ罪人《つみびと》なるかなと嘆じたる事ある程なれば、厭世の真相を知りたる人にしてこれに勝つほどの誠信あらん人は、凡俗ならざる可し。ポープの楽天主義の如きは蓋し所謂解脱したる楽天にして、其|曾《か》つて唱ひし詞句に「凡《すべ》ての自然は妙術なれば汝の能く解する所ならじ、凡ての偶事は指呼に従ふものにして汝の関する所ならじ、凡ての不和は遂に調和なる事も汝が会《くわい》し得る所ならじ、一部に悪と思はるゝ所のものは全部に善、傲慢《がうまん》に訊《と》ふ勿《なか》れ、誤理《ごり》に惑はさるゝ勿れ、凡《およ》そ一真理の透明なるあらば其の如何なる者なるを問はず、必らず善なるを疑ふ勿れ。」と云ふ一節あり。蓋し斯の如きは人生の圧威を自力を以て排斥したりと思惟する者にして、抑も経験の結果なり。凡そ経験なきの思想には斯の如き解脱、思ひも寄らぬ事なり。
 偖《さ》て誠信の以て厭世に勝つところなく、経験の以て厭世を破るところなき純一なる理想を有《も》てる少壮者流の眼中には、実世界の現象|悉《こと/″\》く仮偽なるが如くに見ゆ可きか、曰く否、中に一物の仮偽ならず見ゆる者あり、誠実忠信「死」も奪ふ可らずと見ゆる者あり、何ぞや、曰く恋愛なり
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