アウガスチンの言葉は、同じくトルストイの言はんと欲せしところならむ。彼は漸《やうや》く教義を探り、この中に安慰《なぐさめ》を求めんとしたりしたが、この事も亦た彼を失望せしめたり、教にありて世を渡るといふなる信者づれも苟且《かりそめ》の思ひ定めにて、たしかに己れの生涯をしかなさんとにはあらざるを知りたればなり。彼は遂に、農民の生活をもて尤も能く己れの疑惑を解くものとせり。神の意に従へる生活は一の意味を有せり、自《みづか》らは我が業《げふ》の目的如何なるを弁《わきま》へずと雖、これを用ゆるの主《しゆ》には大なる目的あり。トルストイ伯曰く「神を知ることゝ生命《いのち》とは一にして離るべからざる者なり。神は生命なり。神を求むるを主《つと》むべし、神なくして生命ある事|能《あた》はじ」と。

     トルストイ伯の基督教

 基督教は元《も》とより製作的のものならず、然るを世の変遷につれて追々に製作的進化をなし来りて、始めの純樸透清を失ひたり、今は唯だ其外被のみを残して、道徳といふものも所謂《いはゆる》世俗的のつとめとこそ堕ち沈みけり。こゝに於てか伯の全心は、基督教を最初の純朴なる位地に回《か》へす事に注ぎたり。其小説の中《うち》に一箇の偶人をやとうて、言はしめて曰く、
「聴きね、わが思ふやう、基督が世にありし頃に為せるところ何人《なんぴと》をも退《しりぞ》けし跡はなく、世にさげすまるゝ者には却《かへつ》て慈悲を垂れたまへる事多かりき。彼は卑しき者より使徒を撰み挙げたまひしのみか、常に卑賤《いやしき》ものをあはれみたまひし跡、蔽《おほ》ふ可からず。自ら高しとするものは卑《ひく》くせられ、自ら卑くするものは高めらるべしと教へられ、自らも万民の主と言ひながら弟子達の足を洗ふ程に、身を卑うせられき。」云々。

     伯の道徳本領

 は、基督の山上の教訓より転化し来れりと思はるゝ節《ふし》多し。曰く、
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(1)[#「(1)」は縦中横] 戦ふこと勿《なか》れ。
(2)[#「(2)」は縦中横] 義《さば》きする勿れ。
(3)[#「(3)」は縦中横] 姦婬を犯す勿れ。
(4)[#「(4)」は縦中横] 誓を立つる勿れ。
(5)[#「(5)」は縦中横] いかりを起す勿れ。
(6)[#「(6)」は縦中横] 悪を為す者に暴を以て加ふる勿れ。
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