そ》にし、狂熱を冷散するとも別に諷刺の元質、世に充盈《じゆうえい》せりと見るは非か。
緑雨は果して渾身《こんしん》是《これ》諷刺なるや否やを知らず。譬喩《ひゆ》に乏しく、構想のゆかしからぬ所より言へば、未だ以て諷刺家と称するには勝《た》へざるべし。然れども、油、犬、両篇を取って精読すれば、溢るゝばかりに冷罵の口調あるを見ざらんと欲するも得べからず。而して疑ふ、彼の冷罵は如何なる対手《あひて》に向ふて投ぐる礫《つぶて》なるや。対手なくして冷罵すと言はゞ、彼は冷罵せんが為に冷罵し、諷刺せんが為に諷刺する者にして、世は彼を重んずること能はざるべし。対手ありて冷罵すとせば、如何なる対手にてやあらむ。対手は能《よ》く冷罵者を軽重す可ければ、この吟味も亦た苟且《かりそめ》にす可からず。
曰く、社界なり。彼は能く現社界を洞察す。特に或る一部分の妖魔《えうま》を捕捉するの怪力を有す。此点より見れば彼は一個の写実家なり。「油地獄」に書生の堕落を描くところなどは、宛然たる写実家なり。然れども彼に写実家の称を与ふるは非なり、彼は写実の点より筆を着《ちやく》せず、諷刺の点より筆を着したればなり、唯だ譬喩な
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