日の赫燿《かくえう》たるには及ばず。
諷刺にも二種ありと見るは非か。一は仮時的《テンポラル》なり、他は永遠にして三世《さんぜ》に亘るなり。仮時的《テンポラル》なる者は一時の現象を対手とし、永遠なる者は人世の秘奥を以《も》て対手とす。政治を刺し、社界を諷する者等は第一種にして、人生の不可避なる傷痍を痛刺して、自《みづか》らも涙底に倒れんとするが如き者は第二種なり。第一種は第二種よりも多く直接の視察《ヲブザーバンス》より暴発《ばくはつ》し、第二種は第一種よりも多く哲学的観察によりて湧生す。
第二種のものは戯曲其他の部門に隠《かくれ》て、第一種の者のみ諷刺の名を縦《ほしいまゝ》にする者の如し。一時の現象を罵り、政治|若《もし》くは社界の汚濁を痛罵するを以て諷刺家の業《わざ》は卒《をは》れる者と思《おもふ》は非にして、一時の現象を透観するの眼光は、万古の現象にも透観すべき筈《はず》なり。一現象は他の現象と脈絡相通ずるをも徹視すべき筈なり。故に諷刺家は仮時的《テンポラル》なりとして賤《いや》しむ可きにあらず、一現象の中《うち》に他の永遠の現象を映影せしむるを得べければなり。ヱゴイズムを外《よ
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