せるを惜まずんばある可からず。奇想|却《かへ》つて平凡の如くに見え、妙刺却つて痴言の如くに聞《きこ》え、快罵却つて不平の如くに感ぜらる、斯の如きもの、緑雨が撰みたる材料の不自然にして顕著に過ぎたるものなりしことより起るなり。何が故に不自然なりと云ふ、曰く、社界の魔毒は、緑雨が撰みたる材料の上には商標の如くに見《あら》はるれば、之を罵倒するは鴉の黒きを笑ひ、鷺の白きを罵るが如く感ぜらるればなり、罵倒する材料すでに如此《かくのごとく》なれば、其痛罵も的を外《はづ》れ、諷刺も神《しん》に入らざるこそ道理なれ、又《ま》た惜しむべし。
 惜む、惜む、この諷刺の盈々《えい/\》たる気を以て、譬喩の面を被らず素面にして出たることを。惜しむ、惜しむ、この写実の妙腕を以て、徒《いたづ》らに書生の堕落といへる狭まき観察に偏したることを。君に写実の能なしとは言はず。天下、君を指目するに皮肉家を以てす、君何んすれぞ一蹶《いつけつ》して、一世を罵倒するの大譬喩を構へざる。「小説評註」は些技なり、小説家幾人ありとも未だ罵倒すべき巨幹とはならざるを知らずや。罵倒すべき者あり、爆発弾を行《や》る虚無党が敵を倒す時に自《みづか》らも共に倒れて、同じく硝煙の中に露と消ゆるの趣味を能く解せば、いざ語らむ、現社界とは言はず、幾千年の過去より幾千年の未来に亘る可き人間の大不調子、是《これ》なり。
 この評を草する時、傍らに人あり、余に告げて曰く、駒之助と云ひ、貞之進と云ひ、余りに※[#「車+(而/大)」、第3水準1−92−46]弱《ぜんじやく》なる人物を主人公に取りしにはあらずやと。余笑つて曰く、是れ即ち緑雨が冷罵に長ずる所以《ゆゑん》なり、緑雨は写実家の如くに細心なれども、写実家の如くに自然を猟《あさ》ること能はず、彼は貞之進を鋳る時、既に八万の書生を罵らんことを思ひ、駒之助を作る時に、既に唐様を学得せる若旦那を痛罵せんとするのみにて、自然不自然は彼に取りて第二の問題なればなりと。
 不自然は即ち不自然ながら、緑雨も亦た全く不哲学的なるにはあらず。駒之助の愛情とその物狂ひを写せるところ真に迫りて、露伴が悟り過《すぎ》たる恋愛よりも面白し。諷刺を離れ、冷罵を離れたるところ、斯般《しはん》の妙趣あり。戯曲的なる「犬蓼」、写実的なる「油地獄」、われはあつぱれ明治二十四年の出色文字と信ず。われは此書を評すとは言は
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