そ》にし、狂熱を冷散するとも別に諷刺の元質、世に充盈《じゆうえい》せりと見るは非か。
 緑雨は果して渾身《こんしん》是《これ》諷刺なるや否やを知らず。譬喩《ひゆ》に乏しく、構想のゆかしからぬ所より言へば、未だ以て諷刺家と称するには勝《た》へざるべし。然れども、油、犬、両篇を取って精読すれば、溢るゝばかりに冷罵の口調あるを見ざらんと欲するも得べからず。而して疑ふ、彼の冷罵は如何なる対手《あひて》に向ふて投ぐる礫《つぶて》なるや。対手なくして冷罵すと言はゞ、彼は冷罵せんが為に冷罵し、諷刺せんが為に諷刺する者にして、世は彼を重んずること能はざるべし。対手ありて冷罵すとせば、如何なる対手にてやあらむ。対手は能《よ》く冷罵者を軽重す可ければ、この吟味も亦た苟且《かりそめ》にす可からず。
 曰く、社界なり。彼は能く現社界を洞察す。特に或る一部分の妖魔《えうま》を捕捉するの怪力を有す。此点より見れば彼は一個の写実家なり。「油地獄」に書生の堕落を描くところなどは、宛然たる写実家なり。然れども彼に写実家の称を与ふるは非なり、彼は写実の点より筆を着《ちやく》せず、諷刺の点より筆を着したればなり、唯だ譬喩なきが故に、諷刺よりも写実に近からんとしたるなり。彼は写実家が社界の実相を描出せんとするが如くならで、諷刺家が世を罵倒せんとて筆を染むるが如くす。彼が胸中を往来する者は、人間界の魔窟なり、人間界の怪魅なり、心宮内の妖婆なり。彼れ能く是等の者を実存界に活《い》け来つて冷罵軽妙の筆を揮ひ、能く人生の実態を描ける者、豈《あに》凡筆ならんや。彼は諷刺家と言はるゝこと能はず、写実家と称へらるゝこと能はず、諷刺家と写実家を兼有せる小説家と名けなば、いかに。
 抱一庵の「曇天」想高く気秀いで、一世を驚かすに足るべき小説なりしも、世は遂に左程に歓迎する事なかりし。其故如何となれば、彼は暗々裡に仏国想《フレンチ・アイデア》を担《にな》ひ入れて、奇抜は以て人を驚かすに足りしかども、遂に純然たる日本想の「一口剣」に及ばざるを奈何《いかに》せむ。「辻浄瑠璃」巧緻を極めたりしも遂に「風流仏」に較《かく》す可き様もなし。外国想が日本想の純全なるに如《し》かず、一片相が少くとも円満相に如かざることを是《ぜ》なりと認め得ば、余は緑雨が社界の諸共に認めて妖魔とし魅窟とする処の一片相を取り来つて、以て社界全躰を刺すの材料と
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