「罪と罰」の殺人罪
北村透谷

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)不知庵主人《フチアンシユジン》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|朝《てふ》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「りっしんべん+隋」、109−下−4]慢

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)なか/\
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 不知庵主人《フチアンシユジン》の譯《やく》に成《な》りし罪《つみ》と罰《ばつ》に對《たい》する批評《ひゝやう》仲々《なか/\》に盛《さかん》なりとは聞《きゝ》けるが、病氣《びやうき》其他《そのた》の事《こと》ありて余《よ》が今日《こんにち》までに見《み》たるは僅《わづか》に四五種《しごしゆ》のみ、而《しか》して其中《そのうち》にも學海先生《ガクカイセンセイ》が國民《こくみん》の友《とも》に掲《かゝ》げられし評文《ひようぶん》は特《こと》に見目立《みめた》ちて見《み》えぬ。余《よ》は平生《へいぜい》學海居士《ガクカイコジ》が儒家《じゆか》らしき文氣《ぶんき》と馬琴《バキン》を承《う》けたる健筆《けんひつ》に欽羨《きんせん》するものなるが、罪《つみ》と罰《ばつ》に對《たい》する居士《コジ》の評文《ひようぶん》の餘《あま》りに居士《コジ》を代表《だいひよう》する事《こと》の多《おほ》きには聊《いさゝ》か當惑《とうわく》するところなき能《あた》はざりし。
 居士《コジ》は、人命犯《じんめいはん》には必《かな》らず萬已むを得ざる原因ある[#「萬已むを得ざる原因ある」に白三角傍点]事《こと》を言《い》ひ、財主《ざいしゆ》の老婆《ろうば》が、貪慾《どんよく》を憤《いきど》ふるのみの一事《いちじ》にして忽《たちま》ち殺意《さつい》を生《せう》ずるは殺人犯の[#「殺人犯の」に傍点]原因としては甚だ淺薄なりと[#「原因としては甚だ淺薄なりと」に白三角傍点]言《い》ひ、而《しか》して自《みづか》ら辨《べん》じて言《い》はるゝは、作者《さくしや》の趣意《しゆい》は、殺人犯《さつじんはん》を犯《おかし》たる人物《じんぶつ》は、その犯後《はんご》いかなる思想《しそう》を抱《いだ》くやらんと心《こゝろ》を用《もち》ひて推測《おしはか》り精微《せいび》の情《じよう》を寫《うつ》して己が才力を著はさんとするのみと[#「己が才力を著はさんとするのみと」に白三角傍点]。再《ふたゝ》び曰《いは》く、その原因の如きはもとより心を置くにあらずと[#「その原因の如きはもとより心を置くにあらずと」に白丸傍点]。末段《まつだん》更《さら》に、財主《ざいしゆ》の妹《いもうと》を殺《ころ》したる一條《いちじよう》を難《なん》じて「その氣質《きしつ》はかねて聞《きゝ》たる正直質樸《せうじきしつぼく》のものたるに、これをも殺したるはいかにぞや[#「これをも殺したるはいかにぞや」に白三角傍点]………さてはのち我《われ》にかへりて大にこれを痛み悔ゆべきに[#「大にこれを痛み悔ゆべきに」に白三角傍点]、」云々と言《い》はれたり。
 余《よ》は學海居士《ガクカイコジ》の批評《ひゝよう》に對《たい》して無用《むよう》の辨《べん》を費《つい》やさんとするものにあらず、右《みぎ》に引《ひ》きたるは、居士《コジ》の批評法《ひゝやうほふ》の如何《いか》に儒教的《じゆけふてき》なるや、いかに勸善懲惡的《くわんぜんてふあくてき》なるやを示《しめ》さんとしたるのみ、居士《コジ》には居士《コジ》の定見《ていけん》あり、そを評論《ひやうろん》せんは一|朝《てふ》一|夕《せき》の業《わざ》にはあらじ。
 余は「罪と罰」第一|卷《くわん》を通讀《つうどく》すること前後《ぜんご》二|囘《くわい》せしが、その通讀《つうどく》の際《さい》極《きは》めて面白《おもしろ》しと思《おも》ひたるは、殺人罪《さつじんざい》の原因《げんいん》のいかにも綿密《めんみつ》に精微《せいび》に畫出《くわくしゆつ》せられたる事《こと》なり、もし或《ある》兇漢《けふかん》ありて或《ある》貞婦《ていふ》を殺《ころ》し、而《しか》して後《のち》に或《ある》義士《ぎし》の一撃《いちげき》に斃《たほ》れたりと書《か》かば事理分明《じりぶんめい》にして面白《おもしろ》かるべしと雖《いへども》、罪《つみ》と罰《ばつ》の殺人罪《さつじんざい》は、この規矩《きく》には外《はづ》れながら、なほ幾倍《いくばい》の面白味《おもしろみ》を備《そな》へてあるなり。
 一|醉漢《すいかん》ありて酒毒《しゆどく》の爲《ため》に神經《しんけい》を錯亂《さくらん》せられ、これが爲《ため》に自殺《じさつ》するに至《いた》りたる事《こと》ある時《とき》は、彼は酒故に自殺したりと[#「彼は酒故に自殺したりと」に白丸傍点]言《い》ふを躊躇《ちうちよ》せざるべし、酒は即ち自殺の原因なり[#「酒は即ち自殺の原因なり」に白丸傍点]。一|頑漢《ぐわんかん》ありて、社會の制裁と運命の自然なる威力に從順なる事能はず[#「社會の制裁と運命の自然なる威力に從順なる事能はず」に白丸傍点]、これが爲《ため》に人《ひと》には擯《しりぞ》けられ、世《よ》には捨《す》てられ、事業を愚弄し[#「事業を愚弄し」に白丸傍点]、人間をくだらぬもの[#「人間をくだらぬもの」に白丸傍点]とし、階級秩序の如きをうるさきもの[#「階級秩序の如きをうるさきもの」に白丸傍点]とし、誠愛誠實を無益のものと思ひ[#「誠愛誠實を無益のものと思ひ」に白丸傍点]、無暗に人を疑ひ[#「無暗に人を疑ひ」に白丸傍点]、矢鱈に天を恨み[#「矢鱈に天を恨み」に白丸傍点]、その極《きよく》遂《つい》に精神《せいしん》の和《やわらぎ》を破《やぶ》りて行《おこな》ふべからざる事《こと》を行《おこな》ひ自《みづか》ら知《し》らざる程《ほど》の惡事《あくじ》を爲遂《しと》ぐる事《こと》あらば、其《その》惡事《あくじ》例《たと》へば殺人罪《さつじんざい》の如《ごと》き惡事《あくじ》は意味《いみ》もなく、原因《げんいん》も無《な》きものと云《い》ふを得《う》べきや、之《これ》を心理的《しんりてき》に解剖《かいぼう》して仔細《しさい》に其《その》罪惡《ざいあく》の成立《なりたち》に至《いたる》までの道程《みちのり》を描《ゑが》きたる一書《いつしよ》を淺薄《せんはく》なりとして斥《しりぞ》くる事《こと》を得《う》べきや。
 殺人罪《さつじんざい》は必《かな》らずしも或見ゆべき原因によりて成立つものにあらざるなり[#「或見ゆべき原因によりて成立つものにあらざるなり」に白丸傍点]、必《かな》らずしも酬報《しゆうほう》の理論《りろん》若《もし》くは勸善懲惡《くわんぜんてふあく》の算法《さんほう》より割出《わりだ》し得《う》るものにあらざるなり、我《わ》が「罪と罰」一|卷《くわん》に見《み》るところのもの全篇《ぜんへん》悉く慘憺たる血くさき殺戮の跡を印するを認むるなり[#「悉く慘憺たる血くさき殺戮の跡を印するを認むるなり」に白丸傍点]、見《み》よ飮酒《いんしゆ》は彼《かの》非職官吏《ひしよくくわんり》を殺《ころ》しつゝあるにあらずや非職官吏《ひしよくくわんり》の放蕩懶惰《はうとうらんだ》は其《その》愛《あい》らしき妻《つま》を殺《ころ》しつゝあるにあらずや其《その》無邪氣《むじやき》の娘《むすめ》を殺《ころ》しつゝあるにあらずや、婬賣と名け肺病と名け[#「婬賣と名け肺病と名け」に白丸傍点]、※[#「りっしんべん+隋」、109−下−4]慢と名つくるもの[#「※[#「りっしんべん+隋」、109−下−4]慢と名つくるもの」に白丸傍点]、これ實に精神的に死してあるなり殺してあるなり[#「これ實に精神的に死してあるなり殺してあるなり」に白丸傍点]、悲哀懊惱の幽暗なる事は[#「悲哀懊惱の幽暗なる事は」に白丸傍点]「死[#「死」に白丸傍点]」の幽暗なるよりも多きなり[#「の幽暗なるよりも多きなり」に白丸傍点]。讀者《とくしや》余《よ》が言《げん》を信《しん》ぜずば罪と罰に就《つ》きて、更《さら》に其他《そのた》の記事《きじ》を精讀《せいどく》せられよ、思《おも》ひ盖《けだ》し半《なかば》に過《す》ぎんか。
 余が前號《ぜんごう》の批評《ひゝよう》にも云《い》ひし如《ごと》く罪と罰とは最暗黒《さいあんこく》の露國《ロコク》を寫《うつ》したるものにてあるからに馬琴《バキン》の想像的侠勇談《そうぞうてきけふゆうだん》にある如《ごと》く或《ある》復讎《ふくしゆう》或《あるは》忠孝等《ちゆうこうとう》の故《ゆえ》を以《も》て殺人罪《さつじんざい》を犯《おか》さしめたるものにあらざること分明《ぶんめい》なり。最暗黒《さいあんこく》の社會《しやくわい》にいかにおそろしき魔力の潛むありて[#「いかにおそろしき魔力の潛むありて」に白丸傍点]學問《がくもん》はあり分別《ふんべつ》ある腦膸《のうずい》の中《なか》に、學問《がくもん》なく分別《ふんべつ》なきものすら企《くわだ》つることを躊躇《ためろ》ふべきほどの惡事《あくじ》をたくらましめたるかを現《あら》はすは蓋《けだ》しこの書《しよ》の主眼《しゆがん》なり。而《しか》して斯《かく》の如《ごと》く偶然の機會よりして偶然の殺戮を見得るが故に[#「偶然の機會よりして偶然の殺戮を見得るが故に」に白丸傍点]、一|見《けん》して淺薄《せんはく》にして原因《げんいん》もなきものゝ種《たね》なる、この書《しよ》の眞價《しんか》は實《じつ》に右《みぎ》に述《の》べたる魔力《まりよく》の所業《しよげふ》を妙寫《みようしや》したるに於《おい》て存するのみ。もしこの評眼《ひようがん》をもちて財主の妹を財主と共に虐殺したる一節[#「財主の妹を財主と共に虐殺したる一節」に白丸傍点]を讀《よ》まば、作者《さくしや》の用意《ようい》の如何に非凡《ひぼん》なるかを見《み》るに惑《まど》はぬなるべし。
 作者《さくしや》は何《なん》が故《ゆえ》にラスコーリニコフが氣鬱病《きうつびやう》に罹《かゝ》りたるやを語《かた》らず開卷《かいかん》第一に其《その》下宿住居《げしゆくじゆうきよ》を點出《てんしつ》せり、これらをも原因《げんいん》ある病氣《びやうき》と言《いひ》て斥《しりぞ》けたらんには、この書《しよ》の妙所《みやうしよ》は終《つい》にいづれにか存《そん》せんや。何《なん》が故《ゆえ》に私宅教授《したくけふじゆ》の口がありても錢取道《ぜにとるみち》を考《かんが》へず、下宿屋《げしゆくや》の婢《ひ》に、何《なに》を爲《し》て居《ゐ》ると問《と》はれて考《かんが》へる事《こと》を爲《し》て居《ゐ》ると驚《おどろ》かしたるや。何《なん》が故《ゆへ》に、婬賣《いんばい》女に罪《つみ》を行《おこな》ふ資本《しほん》と知《し》りながら、香水料《こうすいりよう》の慈惠《じけい》を爲《な》せしや、何《なん》が故《ゆへ》に少娘《むすめ》を困厄《こんやく》せしめし惡漢《あくかん》をうちひしぐなどの正義《せいぎ》ありて、而《しか》して己《おの》れ自《みづか》ら人《ひと》を殺《ころ》すほどの惡事《あくじ》を爲《な》せしや、何《なん》が故《ゆへ》に極《きは》めて正直《せうじき》なる心《こゝろ》を以《もつ》て、極《きは》めて愛情《あいじよう》にひかさるべき性情《せいじよう》を以《も》て而《しか》して母《はゝ》と妹《いもと》の愛情《あいじよう》を冷笑《れいしよう》するに至《いた》りしや、何《なん》が故《ゆえ》に一|人《にん》の益《えき》なきものを殺《ころ》して多人數《たにんず》を益《えき》する事《こと》を得《え》ば惡《あ》しき事《こと》なしといふ立派《りつぱ》なる理論《りろん》をもちながら流用《りうよう》する事《こと》覺束《おぼつか》なき裝飾品《そうしよくひん》數個《すこ》を奪《うば》ひしのみにして立去《たちさ》るに至《いた》りしか、何《
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