實《じつ》に右《みぎ》に述《の》べたる魔力《まりよく》の所業《しよげふ》を妙寫《みようしや》したるに於《おい》て存するのみ。もしこの評眼《ひようがん》をもちて財主の妹を財主と共に虐殺したる一節[#「財主の妹を財主と共に虐殺したる一節」に白丸傍点]を讀《よ》まば、作者《さくしや》の用意《ようい》の如何に非凡《ひぼん》なるかを見《み》るに惑《まど》はぬなるべし。
 作者《さくしや》は何《なん》が故《ゆえ》にラスコーリニコフが氣鬱病《きうつびやう》に罹《かゝ》りたるやを語《かた》らず開卷《かいかん》第一に其《その》下宿住居《げしゆくじゆうきよ》を點出《てんしつ》せり、これらをも原因《げんいん》ある病氣《びやうき》と言《いひ》て斥《しりぞ》けたらんには、この書《しよ》の妙所《みやうしよ》は終《つい》にいづれにか存《そん》せんや。何《なん》が故《ゆえ》に私宅教授《したくけふじゆ》の口がありても錢取道《ぜにとるみち》を考《かんが》へず、下宿屋《げしゆくや》の婢《ひ》に、何《なに》を爲《し》て居《ゐ》ると問《と》はれて考《かんが》へる事《こと》を爲《し》て居《ゐ》ると驚《おどろ》かしたるや。何《なん》が故《ゆへ》に、婬賣《いんばい》女に罪《つみ》を行《おこな》ふ資本《しほん》と知《し》りながら、香水料《こうすいりよう》の慈惠《じけい》を爲《な》せしや、何《なん》が故《ゆへ》に少娘《むすめ》を困厄《こんやく》せしめし惡漢《あくかん》をうちひしぐなどの正義《せいぎ》ありて、而《しか》して己《おの》れ自《みづか》ら人《ひと》を殺《ころ》すほどの惡事《あくじ》を爲《な》せしや、何《なん》が故《ゆへ》に極《きは》めて正直《せうじき》なる心《こゝろ》を以《もつ》て、極《きは》めて愛情《あいじよう》にひかさるべき性情《せいじよう》を以《も》て而《しか》して母《はゝ》と妹《いもと》の愛情《あいじよう》を冷笑《れいしよう》するに至《いた》りしや、何《なん》が故《ゆえ》に一|人《にん》の益《えき》なきものを殺《ころ》して多人數《たにんず》を益《えき》する事《こと》を得《え》ば惡《あ》しき事《こと》なしといふ立派《りつぱ》なる理論《りろん》をもちながら流用《りうよう》する事《こと》覺束《おぼつか》なき裝飾品《そうしよくひん》數個《すこ》を奪《うば》ひしのみにして立去《たちさ》るに至《いた》りしか、何《なん》が故《ゆえ》にこの裝飾品《そうしよくひん》を奪《うば》ふは單《たん》に斬取強盜《きりどりごうとう》の所爲《しよい》にして苟《いやし》くも理論《りろん》を搆《かま》へたる大學生《だいがくせい》の爲《な》すべからざるところなるを忘《わす》れしか、是等の凡ての撞着[#「是等の凡ての撞着」に白丸傍点]、是等の凡ての調子はづれ[#「是等の凡ての調子はづれ」に白丸傍点]、是等の凡ての錯亂[#「是等の凡ての錯亂」に白丸傍点]、は即《すなは》ち作者《さくしや》が精神《せいしん》を籠《こ》めて脚色《きやくしよく》したるもの、而《しか》して其《その》殺人罪《さつじんざい》を犯《おか》すに至《いた》りたるも、實《じつ》に是《こ》れ、この錯亂《さくらん》、この調子《てふし》はづれ、この撞着《どうちやく》より起《おこ》りしにあらずんばあらず。而して斯《か》くこの書《しよ》の主人公《しゆじんこう》を働《はたら》かせしものは即ち無形の社會而已なること云を須たず[#「即ち無形の社會而已なること云を須たず」に白丸傍点]。
 運命《うんめい》人間《にんげん》の形《かたち》を刻《きざ》めり、境遇《けふぐう》人間《にんげん》の姿《すがた》を作《つく》れり、不可見の苦繩人間の手足を縛せり[#「不可見の苦繩人間の手足を縛せり」に白丸傍点]、不可聞の魔語人間の耳朶を穿てり[#「不可聞の魔語人間の耳朶を穿てり」に白丸傍点]、信仰《しんこう》なきの人《ひと》、自立《じりつ》なきの人《ひと》、寛裕《かんゆう》なきの人《ひと》、往々《おう/\》にして極めて愍《あは》れむべき悲觀《ひかん》に陷《おちい》ることあるなり、之《これ》に加《くわ》ふるに頑愚の迷信あり[#「頑愚の迷信あり」に白丸傍点]、誤謬の理論あり[#「誤謬の理論あり」に白丸傍点]、惑溺の癡心あり[#「惑溺の癡心あり」に白丸傍点]、無憑の恐怖あり[#「無憑の恐怖あり」に白丸傍点]、盲目の驕慢あり[#「盲目の驕慢あり」に白丸傍点]、涯なき天と底なき地の間に[#「涯なき天と底なき地の間に」に白丸傍点]
[#ここから2字下げ]
What a poor wretched creature as I am,
Creeping between heaven and earth.
[#ここで字下げ終わり]
と絶叫《ぜつけふ》するもの、豈《あに》ハムレツトのみならんや。
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