《いた》りたる事《こと》ある時《とき》は、彼は酒故に自殺したりと[#「彼は酒故に自殺したりと」に白丸傍点]言《い》ふを躊躇《ちうちよ》せざるべし、酒は即ち自殺の原因なり[#「酒は即ち自殺の原因なり」に白丸傍点]。一|頑漢《ぐわんかん》ありて、社會の制裁と運命の自然なる威力に從順なる事能はず[#「社會の制裁と運命の自然なる威力に從順なる事能はず」に白丸傍点]、これが爲《ため》に人《ひと》には擯《しりぞ》けられ、世《よ》には捨《す》てられ、事業を愚弄し[#「事業を愚弄し」に白丸傍点]、人間をくだらぬもの[#「人間をくだらぬもの」に白丸傍点]とし、階級秩序の如きをうるさきもの[#「階級秩序の如きをうるさきもの」に白丸傍点]とし、誠愛誠實を無益のものと思ひ[#「誠愛誠實を無益のものと思ひ」に白丸傍点]、無暗に人を疑ひ[#「無暗に人を疑ひ」に白丸傍点]、矢鱈に天を恨み[#「矢鱈に天を恨み」に白丸傍点]、その極《きよく》遂《つい》に精神《せいしん》の和《やわらぎ》を破《やぶ》りて行《おこな》ふべからざる事《こと》を行《おこな》ひ自《みづか》ら知《し》らざる程《ほど》の惡事《あくじ》を爲遂《しと》ぐる事《こと》あらば、其《その》惡事《あくじ》例《たと》へば殺人罪《さつじんざい》の如《ごと》き惡事《あくじ》は意味《いみ》もなく、原因《げんいん》も無《な》きものと云《い》ふを得《う》べきや、之《これ》を心理的《しんりてき》に解剖《かいぼう》して仔細《しさい》に其《その》罪惡《ざいあく》の成立《なりたち》に至《いたる》までの道程《みちのり》を描《ゑが》きたる一書《いつしよ》を淺薄《せんはく》なりとして斥《しりぞ》くる事《こと》を得《う》べきや。
殺人罪《さつじんざい》は必《かな》らずしも或見ゆべき原因によりて成立つものにあらざるなり[#「或見ゆべき原因によりて成立つものにあらざるなり」に白丸傍点]、必《かな》らずしも酬報《しゆうほう》の理論《りろん》若《もし》くは勸善懲惡《くわんぜんてふあく》の算法《さんほう》より割出《わりだ》し得《う》るものにあらざるなり、我《わ》が「罪と罰」一|卷《くわん》に見《み》るところのもの全篇《ぜんへん》悉く慘憺たる血くさき殺戮の跡を印するを認むるなり[#「悉く慘憺たる血くさき殺戮の跡を印するを認むるなり」に白丸傍点]、見《み》よ飮酒《いんしゆ》は彼《かの》非職官吏《ひしよくくわんり》を殺《ころ》しつゝあるにあらずや非職官吏《ひしよくくわんり》の放蕩懶惰《はうとうらんだ》は其《その》愛《あい》らしき妻《つま》を殺《ころ》しつゝあるにあらずや其《その》無邪氣《むじやき》の娘《むすめ》を殺《ころ》しつゝあるにあらずや、婬賣と名け肺病と名け[#「婬賣と名け肺病と名け」に白丸傍点]、※[#「りっしんべん+隋」、109−下−4]慢と名つくるもの[#「※[#「りっしんべん+隋」、109−下−4]慢と名つくるもの」に白丸傍点]、これ實に精神的に死してあるなり殺してあるなり[#「これ實に精神的に死してあるなり殺してあるなり」に白丸傍点]、悲哀懊惱の幽暗なる事は[#「悲哀懊惱の幽暗なる事は」に白丸傍点]「死[#「死」に白丸傍点]」の幽暗なるよりも多きなり[#「の幽暗なるよりも多きなり」に白丸傍点]。讀者《とくしや》余《よ》が言《げん》を信《しん》ぜずば罪と罰に就《つ》きて、更《さら》に其他《そのた》の記事《きじ》を精讀《せいどく》せられよ、思《おも》ひ盖《けだ》し半《なかば》に過《す》ぎんか。
余が前號《ぜんごう》の批評《ひゝよう》にも云《い》ひし如《ごと》く罪と罰とは最暗黒《さいあんこく》の露國《ロコク》を寫《うつ》したるものにてあるからに馬琴《バキン》の想像的侠勇談《そうぞうてきけふゆうだん》にある如《ごと》く或《ある》復讎《ふくしゆう》或《あるは》忠孝等《ちゆうこうとう》の故《ゆえ》を以《も》て殺人罪《さつじんざい》を犯《おか》さしめたるものにあらざること分明《ぶんめい》なり。最暗黒《さいあんこく》の社會《しやくわい》にいかにおそろしき魔力の潛むありて[#「いかにおそろしき魔力の潛むありて」に白丸傍点]學問《がくもん》はあり分別《ふんべつ》ある腦膸《のうずい》の中《なか》に、學問《がくもん》なく分別《ふんべつ》なきものすら企《くわだ》つることを躊躇《ためろ》ふべきほどの惡事《あくじ》をたくらましめたるかを現《あら》はすは蓋《けだ》しこの書《しよ》の主眼《しゆがん》なり。而《しか》して斯《かく》の如《ごと》く偶然の機會よりして偶然の殺戮を見得るが故に[#「偶然の機會よりして偶然の殺戮を見得るが故に」に白丸傍点]、一|見《けん》して淺薄《せんはく》にして原因《げんいん》もなきものゝ種《たね》なる、この書《しよ》の眞價《しんか》は
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