万物活情あり、之ありて世界変化あり、他ならず、心性上に於ける引力之なり。人はこの引力の持主にして、彼の約束の捺印者《なついんしや》なり。
余今ま村舎に宿して一面の好画を見たり。雄鶏は外に出でゝ食をもとめ、雌鶏は巣に留りて雛を温む。孵《かへ》りて後僅かに半月、或は母鶏の背に升《のぼ》り、或は羽をくゞりて自から隠る、この間言ふ可からざるの妙趣ありて余を驚破せり。細かに万物を見れば、情なきものあらず。造化の摂理|愕《おど》ろくべきものあり。
或は劣情[#「劣情」に傍点]と呼び、或は聖情[#「聖情」に傍点]と称《い》ふ、何を以て劣と聖との別をなす、何が故に一は劣にして、一は聖なる、若し人間の細小なる眼界を離れて、造化の広濶なる妙機を窺《うかゞ》えば、孰《いづれ》を聖と呼び、孰《いづ》れを劣と称《よ》ぶを容《ゆ》るさむ。濫《みだ》りに道法を劃出して、この境を出づれば劣なり、この界を入れば聖なりと言ふは何事ぞ。
情の素たるや一なり、之を運ぶ器と機の異なるに因つて聖劣を分たんとす。世間の道義は之に対して声を励まして正邪を論ず、何ぞ迂《う》なるの甚しき。文化は人に被らすに数葉の皮を以てす、之を着ざれば即ち曰く、破徳なりと。むしろ蕃野《ばんや》の真朴にして、情を包むに色を以てせざるに如《し》かんや。
人の中に二種の相背反せる性あり、一は研磨《けんま》したるもの、一は蕃野なるもの、「徳」と云ひ、「善」と云ひ、「潔」と云ひ、「聖」といふ、是等のものは研磨の後に来る、而して別に「情」の如き、「慾」の如き、是等のものは常に裸躰ならんことを慕ひて、縦《ほしいまゝ》に繋禁を脱せんことを願ふ。この二性は人間の心の野にありて、常に相戦ふなり。
電火は人を戮《こ》ろすと謂ふ。然り、渠《かれ》は魔物なり。然れども少しく造化の理を探れ、自からに電火の起らざるべからざるものあるを悟れ、天の気と地の気と、相会せざる可からざるものあるを察せよ。自然界に於て猶《なほ》此事あり、人間の心界何ぞ常に静謐《せいひつ》なるものならんや。風雨|軈《には》かに到り、迅雷忽ち轟《とゞ》ろく光景は心界の奇幻、之を見て直ちに繩墨の則を当て、是非の判別を下さんとするは、豈《あに》達士の為すところならんや。
人は常に或度に於て何物かの犠牲たり。能《よ》く何物にも犠牲たらざるものは、人間として何の佳趣をも備へざる者なり。何を
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