我《わが》殿御かへしてたべ、何処《いづく》へつれて行く事ぞ、男返してたべなう、いや御僧とは空目《そらめ》かや」の一節。「尋ぬる夫の容形《なりかたち》、姿は詞に語るとも、心は筆も及びなき、ぼんじやりとしてきつとして、花橘の袖の香に」以下の一節|等《など》は、いかにもヲフヱリヤが狂ひに狂ひし歌に比べて多く愧《はぢ》ず。「フオースト」のマーガレツトが其|夫《をつと》の去りたるあとに心狂はしく歌ひ出でたる「我が心は重し、我平和は失せたり」の霊妙なる歌にくらべても、左《さ》まで劣るべしとは思はれず。
 疑ひもなく「お夏」は巣林子の想中より生み出《いだ》せる女主人公中にて尤も自然に近き者なり、又た尤も美妙なる霊韻に富める者なり。梅川の如き、小春の如き、お房の如き、小万の如き、皆是れ或一種の屈曲を経て凝《こ》りたる恋にあらざるはなし、男の情を釣りたる上にて釣られたる者にあらざるはなし、或事情と境遇の圧迫に遭《あひ》て、心中する迄深く契りたるにあらざるはなし、然に此篇のお夏は、主人の娘として下僕《かぼく》に情を寄せ、其情は初《はじめ》に肉情《センシユアル》に起りたるにせよ、後《のち》に至《いたり》て立派なる情愛《アツフヱクシヨン》にうつり、果《はて》は極《きはめ》て神聖なる恋愛《ラブ》に迄進みぬ。
 著者は元よりフオーストの如き哲学的生産の男主人公を作る可き戯曲家にはあらざりし。然れども清十郎の品格を※[#「てへん+僉」、第3水準1−84−94]《さが》し来《きた》れば、忠兵衛、平兵衛、治兵衛、其他の如き暗迷の資性とは趣きを異にするところ多し、お夏の口にて言はせたる「姿は詞に語るとも、心は筆も及びなき」にて、既にその高品の心[#「心」に白丸傍点]なる事を示し、追ひ払はれたる後に後悔の言葉、または末段の「虚言《いつはり》を云ふまじと、毎朝《まいてう》天道氏神を祈りしかども、若き者の悲しさは、只今非業に死《しな》んとは思ひも寄らず」より以下、句々妙味あり、述懐に於て其人品の異凡なる事を示せり。左ればお夏が愛情の自《おのづ》からに霊韻を含む様《やう》になるも自然の結果にて、作者の用意浅しと云ふ可からず。
 余は此篇を以《も》て巣林子が恋愛に対する理想の極高なるものと言はんと欲す。世に恋愛なるものゝ全く抽き去るを得て、凡《すべ》て神聖なる宗教的思想の統御に帰する事あらば、恋愛のことを談ぜざるもよし、苟《いやし》くも恋愛が人生の一大|秘鑰《ひやく》たる以上は、其素性の高潔なるところより出で、其《その》成行の自然に近かるべきは、文学上に於て希望せざるを得ざる一大要件なり。
 抑《そもそ》も恋愛は凡ての愛情の初めなり、親子の愛より朋友の愛に至《いたる》まで、凡《およ》そ愛情の名を荷ふべき者にして恋愛の根基より起らざるものはなし、進んで上天に達すべき浄愛までもこの恋愛と関聯すること多く、人間の運命の主要なる部分までもこの男女の恋愛に因縁すること少なからず。左れば文人の恋愛に対するや、須《すべか》らく厳粛なる思想を以《も》て其美妙を発揮するを力《つと》むべく、苟くも卑野なる、軽佻《けいてう》なる、浮薄なる心情を以て写描することなかるべし。
 高尚なる意あるものには恋愛の必要特に多し、そは其心に打ち消す可からざる弱性と不満足と常に宿り居ればなり、恋愛なるものはこの弱性を療《れう》じ、この不満足を愈《いや》さんが為に天より賜はりたる至大の恩恵にして、男女が互に劣情を縦《ほしいまゝ》にする禽獣的慾情とは品異れり。プラトーの言へりし如く、恋愛は地下のものにはあらざるなり、天上より地下に降《くだ》りたる神使の如きものなることを記憶せよ。野外に逍遙して芬郁《ふんいく》たる花香をかぐときに、其花の在るところに至らんと願ふは自然の情なり、其花に達する時に之を摘み取りて胸に※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]《はさ》まんとするも亦た自然の情なり、この情は底なき湖の如くに、一種の自然界の元素と呼ぶより外はなかるべし、之を打つとも破るべからず、之を鋳るとも形《けい》すべからず、之を抜き去らんとするも能《よ》くすべからず、宇宙の存すると共に存する一種の霊界の原素にあらずして何ぞや。
 恋愛は詩人の一生の重荷なり、之を説明せんが為に五十年の生涯は不足なり、然れども詩人と名の付きたる人は必らずこの恋愛の幾部分かを解得《げとく》したるものなり。而して恋愛の本性を審《つまびらか》にするは、古今の大詩人中にても少数の人能く之を為せり、美は到底説明し尽くすべからざるものにして、恋愛の中《うち》に含める美も、到底説明し得《えら》るまでには到ること能はず、然れども詩人の職は説明にのみ限るにあらずして、説明すべからざる者をその儘に写し出るも亦た詩人の職なれば、詩の神
前へ 次へ
全3ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
北村 透谷 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング