魔道文学者、好《よ》し其始祖には何か抜く可からざる一貫の見識ありたりとせんも、其相続者摸擬者等の文学上の位地を看《み》れば、恐らく遊廓を以て彼等の天園と見做《みな》し、正路を歩むの人を愚物視し、人生の大不調子、大不都合を見るよりも寧《むし》ろ小頑小癖小不調子小不都合の眼を具するを尚び、偏曲|※[#「車+(而/大)」、第3水準1−92−46]弱《なんじやく》なる意気より朴直なる野暮の中に隠れたる美を嘲り、至善至悪に対する妙念は残らず擺脱《はいだつ》し去りて只《た》だ慾火炎上の曲りくねりたる一時のすゞしさを此上なき者と珍重す。夫れ恋愛は花なり、造化の花なり、之を碧玉瓶中に見るよりも墨※[#「土へん+它」、第4水準2−4−68]《ぼくだ》堤上に見るに美の価あり。然《しか》れども去《さつ》て吉野の物さびたる造化の深き峰のあたりに見るに、其美、其妙、塵垢に近き墨※[#「土へん+它」、第4水準2−4−68]の外《ほか》に勝る事幾倍なるを知るべし。何となれば花は元《もとも》と造化《ネーチユーア》の天使なるが故に尊きにて、造化の威厳と妙契とが深ければ深き程、其花の妙は尊きなれ。恋愛も亦た斯《か》くの如く造化の妙契と威厳に遠ざかるところには、如何に豪逸奢美を粧ふとも、其美、其妙は枯痩して、浜の砂地に生えたる小草に、あはれ気に咲く花の如けんかし。遊廓は即ち砂地なり、其|中《うち》に生えたる花は即ち遊廓的恋愛なり、美の真ならず自然ならぬ事、多言を用ひずして明瞭なる可し。さりとて元禄文学が遊廓内の事[#「事」に白丸傍点]のみを主としたりと言ふにはあらず、然れども元禄文学者の恋愛に対する思想は、好し純然たる遊廓外の素人《しろうと》を写す場合にも宛然として遊廓的恋愛、即ち世に所謂《いはゆる》好色的恋愛を主としたる事実は、一点の弁析《べんせき》を容るゝの余地なかるべし。思へ、好色と恋愛と文学上に幾許《いくばく》の懸隔あるを、好色は人類の最下等の獣性を縦《ほしいまゝ》にしたるもの、恋愛は、人類の霊生の美妙を発暢《はつちやう》すべき者なる事を、好色を写す、即ち人類を自堕落の獣界に追ふ者にして、真《まこと》の恋愛を写す、即ち人間をして美を備へ、霊を具する者となす事を、好色の教導者となり通弁官となりつる文士は、即ち人類を駆つて下等動物とならしめ、且つ文学上に至妙至美なる恋愛を残害する者なる事を。
「伽羅
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