伴の長所に、少くとも乗入らんとせしなり、而《しか》して露伴も亦た「対髑髏《たいどくろ》」、「奇男児」等の鋭利なる奇想を廻り遠しとや思ひけむ、紅葉独得の写実界にまぐれ込まむとの野心を抱きしなり。故に「伽羅枕」は紅葉従来の作に見る可からざる奇気を吐けり、而して「新葉末集」は露伴が登壇以来見せし事なき人情の微妙を細察したり。然れども余は両作家の位地全然転倒したりと言ふにはあらず、唯だ紅葉は露伴に近づき、露伴も亦た紅葉に近寄り、而して紅葉は紅葉の本躰を備へ、露伴は露伴の実色をあらはすと言ふのみ。某評者の言へりし如く、佐太夫の生涯は江戸の苦海に沈みし後、前半部とは全く異《ことな》れる人物となれり。又た同評者の言はれし如く、所々に時代違ひの如き者あり。要するに彼が其実姉に会ひて後の心想は全く変じて、前半部若し紅葉独得の写実筆法なりせば、後半部はむしろ理想――遊廓内の女豪傑を写す筆法を変じ来りて、往々にして有り得べからざるが如き事実を写し出《いだ》す事、他の諸作に比して不似合なるを覚えしむ。究竟《きうきやう》するに紅葉は実を写す特有の天才より移つて、佐太夫なる、或意味に於ての理想的伝記を画き出たるを以て、平常《へいぜい》の細微巧麗なる紅葉の作を読み慣れたる眼には、何となく琴曲を欲《おも》ふ時に薩摩《さつま》琵琶《びは》を聞くが如きの感あるなれ。余は佐太夫を以て紅葉の理想なりとは断ぜず、唯だ其性質の天晴|傾城《けいせい》の神《しん》とも言はる可き程なるを見て、紅葉は写実の点より墨を染めたりと言はんより、寧ろ理想上の一紅唇、「両刀横へていかめし作りの胸毛男を、幾人《いくたり》も随伴《とも》に引連れ」たる姉が身を、眼下に見下さんほどの粋の粋、廓内にての女豪傑になつたる佐太夫を主観的に画き出たりと見るは非か。
去つて「新葉末集」を読め。「風流仏《ふうりうぶつ》」、「一口剣《いつこうけん》」等に幽妙なる小天地想を嘔《うた》ひ、一種奇気抜く可らざる哲理を含みたる露伴の詩骨は徒《いたづ》らに「心機霊活の妖物」なる道也の影に痩《や》せさらばひぬ。道也は実に一妖物なり、奇物なり、露伴にあらずんば誰か能《よ》く斯般《しはん》の妖物奇物を擒《とりこ》にせん。平凡無癖を以て愚物なりとし、一癖あるにあらざれば談ずるに足らずとする露伴に道也あるは、無理ならぬ事なり。蓋《けだ》し理想詩人の性として必らず人生
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