をつくやうな事は云ひもせず、しもしなかつた。ムツシリしてゐた。ことに、源吉は、この事があつてから、ずウと、何時ものムツシリがひどくなつてゐた。母親にはそれが分つた。源吉は、ひどくムツシリし出す、その次には何かキツトいゝことがなかつた。大きなことをやらかす前、源吉は鐵の固まりのやうにだまりこくつてゐた。母親はそんなことが無ければ、とそればかり思つてゐた。だから、何時もの愚痴が母親の口から出た。
「昔、こつたらごと無かつたんだど、本當に、おつかなこと仕出來すんだか。」
 源吉は上り端に腰を下すと、やけにゴシ/\頭をかいた。
「なんもよく[#「よく」に傍点]なるわけでなしさ。」
 由は、火に足をたてたまゝ、母親と兄とを、見てゐた。何んのことを話し合つてゐるのか分らなかつた。
「きつとえゝ[#「えゝ」に傍点]ことなんて無いんだ。」母親は鼻涕をすゝり上げた。
「それこそ本當にめし[#「めし」に傍点]も喰へねええんた事始まるべよ。」
「あまり先き立たねえ方えゝべ。ん、源。」
 母親はまだ、とぎれ、とぎれにくど/\云つた。
 源吉は年寄つた母親の後姿を見てゐた。白髮の交つてゐるゴミの一杯くつついてゐるモシヤ/\した髮の下から、皮だけたるんだ、生氣ない首筋が見えた。肩がすつかり前こゞみになつて、腰もまがつてゐた。帶の代りにヒモ[#「ヒモ」に傍点]をしめてゐた。身體全體がまるで握り拳位にしか見えなかつた。源吉は今更、氣付いたやうに、「年寄つたなア!」さう、思つた。
 源吉は、今度のことでは、自分から、といふ風な氣乘りはなかつた。反對にこんな煮え切らないことなんて、見てろ、と思つてさへゐた。
 一寸すると、遠くで、馬橇の鈴の音が聞えてきた。
「ホラ、兄。」由が表の方に聞耳をたてゝ云つた。
 源吉は、どつこいしよ、と云つた風に腰をあげて、表へ出て行つた。
 母親はため息[#「ため息」に傍点]をして、ブツ/\何か口の中で云つた。そして、腰をのばして、表の方を見た。「氣ばつけて行くんだで。」源吉の後からさう云つた。
 源吉は、一寸、振返つて、母親を見た、が、そのまゝ戸をしめて、出た。
 卷舌で、馬の手綱をとるのが聞えた。後から來た仲間と何か話してゐる。走つてきた馬が、いきり立つて、首を高くあげながら、嘶いた。鈴は、後から後からと聞えてきて、十二、三臺もとまつたらしかつた。由は、窓から覗いて、何頭來たとか、誰々だとか、一つ/\云つて母に知らせた。表の騷ぎはだん/\大きくなつて行つた。馬のいななく聲や鈴の音や、百姓達が、前や後の仲間を呼び交はすやうにしやべつてゐるのや、それ等が一つになつて、どよめき[#「どよめき」に傍点]になつて聞えた。由は、うれしがつて、窓にぴつたり顏をあてながら、一生懸命に表を見てゐた。母親は、獨言のやうに、「罰當り」とか、「ふんとに碌でなし」だとか云つた。表へは出て見なかつた。
 やがて、馬車が一齊に動き出した。鈴の音が、空氣でもそのまゝ凍えるやうな寒い空に、朗かに、しかしそれだけブルツとするほど寒さうにひゞきわたつた。それに百姓の馬をしかる聲や、革でぴしり/\打つ音や、馬のいなゝきなどが、何か物々しい、生々した、大きな事が今起らうとしてゐるやうに聞えてきた。
 何臺も何臺も過ぎて行つた。誰かゞ源吉の家に言葉をかけてゆくものがあつた。母親は、やうやく戸をあけて表へ出てみた。その時は丁度もう終りさうで、鈴木の石が、母親をみて、「やア、お婆さん、行《え》つてくるど!」と言葉をかけた。
 見ると、涯もなく廣がつてゐるたゞ雪ばかりの廣野を、何臺もの馬橇がまがりくねつてついてゐる道を、勢ひよく走つて行く一列が見えた。遠くから、その橇の調子のいゝ鈴の音が聞えてきた。時々、雪煙が、パツ/\と上つた。後の方の馬橇で先頭のが見えなくなつたかと思ふと、道が逆に曲つてゐる處にくると、その先頭の方が玩具のやうに小さく見えたりした。一列はその度毎にまるで、のびたり、ちゞんだりくねつたり、する黒い糸筋のやうに見えた。それが雪の平野だけに、はつきり目についた。そしてリン/\といふ鈴の音が、遠くに聞えたり、急に近くに聞えたりした。母親は、氣でも呑まれた人のやうに、じつと立つて、それを見てゐた。フト、自分に歸ると、「なんまんだ/\/\。」と云つた。
 停車場のある町では、幹部の百姓達が待つてゐることになつてゐた。雪道が、細くなつて續いてゐる行手に、防雪林の一列がみえ、すぐそこから電信柱や電氣柱が鉛筆を何本も立てたやうにみえ、煙草の煙程の、ストーヴの煙がシヨボ/\空に上つてゐるのが見える所迄來た。もうすぐだつた。
「どうだい、この威勢は!」
 源吉の前の房公が、振りかへつて云つた。
「うまく行くツかい?」
 源吉はあいまいな返事をした。
 どの馬も口や馬具が身體に着いてゐる處などから、石鹸泡のやうな汗をブク/\に出してゐた。舌をだらり出して、鼻穴を大きくし、やせた足を棒切れのやうに動かしてゐた。充分に食物をやつてゐない、源吉の馬などはすつかり疲れ切つて、足をひよいと雪道に深くつきさしたりすると、そのまゝ無氣力にのめりさうになつた。源吉は、もうしばらくしたら、馬を賣り飛ばすなり、どうなり、處分をしなければならないと、考へてゐた。
 十二、三臺もの馬橇が鈴を一せいに、雪の廣野に、おつぴらに響かせながら、前や後が時々呼びかはしたり、物々しく、精一杯に一散に走つてゐるうちに、それが、不思議に、こそくな百姓達の氣持を、グン/\殺バツ[#「殺バツ」に傍点]な、誰でも、なんでも來い、といふ氣持に引きずつて行つた。四十をずつと過ぎてゐる、普段はおとなしい房公さへが、
「地主の野郎、下手なごとしたら、袋たゝきだ。」さう、大聲で源吉に云つた。そして、さういふ氣勢が、云はず語らず、皆の氣持を横に、太く強く一本に結びつけてゐた。若し、彼等の前に何か邪魔ものが出たとしたら、それがどんなものであらうと、騎兵の一隊が敵陣の眞只中に飛び込んで、馬の蹄で縱横に蹴ちらすやうに、一氣にやつつけたかも知れない。――それは、誇張なくさうだつた。
 防雪林を出ると、鐵道線路の踏切があつた。
 一番先頭に立つてゐたのが、いきり立つてゐる馬の手綱を力一杯に身體を後にしのらして引きながら、踏切番に、汽車をきいた。
「馬鹿に澤山だな、どうしたんだ。汽車はまだゞ。えゝよ。」
 顏を見知つてゐた踏切番が、柄に卷いた白旗をもつて、出てきた。
「ぢや、やるよ!」
 そのために、一時とまつた馬橇が、又順に動き出した。その踏切を越すと、今度は鐵道線路に添つてついてゐる道を七、八丁行けば、それで町には入れた。「さあ、愈※[#二の字点、1−2−22]しめてかゝるんだぞ。」さういふのが、前から順次に皆に傳つてきた。
 町の入口に、七、八人の人が立つてゐるのが、眼に入つた。はつきり人は分らなかつた。が、先頭に立つてゐたのが、大きな聲で呼んだり、自分の帽子を振つて合圖をした。入口の七、八人は動かずに、こつちの方を見てゐるらしかつた。向ふには分らないのか、こつちからの合圖には、何も返事をしてゐるらしいしるしが無いやうに思はれた。
 一寸すると、それ等の人が、一度に、こつちに向つて走つてくるらしかつた。
 先きに立つてゐた百姓の二、三人が「あツ※[#感嘆符二つ、1−8−75]」と、一緒に叫んだ。そして、急に[#「急に」に傍点]馬を止めた。後からの馬は、はずみを食つて、前の馬橇に前足を打つた。後から、「どうした、どうした」「やれ/\!」皆が馬橇の上でのめつたり、雪やぶにとび出したりして、前を見ながら叫んだ。
「大變だ! 巡査だ※[#感嘆符二つ、1−8−75]」
「えツ※[#感嘆符二つ、1−8−75]」皆、ギヨツ! として、瞬間、だんまりの表情人形のやうに、立ちすくんで、前方を見た。――巡査だ! たしかに巡査だつた。
 だが、巡査とは! 百姓は巡査にはなれてゐなかつた。文字通りだじ/\になつて、何が何やら分らずにゐるうちに、手もなく巡査に兩側を守られて、十三人の百姓は警察に連れられて行つた。警察には幹部の百姓も連れて來られてゐた。地主が皆の入つてくるのを見ると、椅子に坐つたまゝ、大聲で笑ひ出した。その夜まで皆は、ブル/\震ひながら、駐在所の後の小さい室に押しこめられてゐた。巡査が三人もついてゐるので、お互が一言も話すことが出來なかつた。表からは、何頭もの馬のいなゝきや足がき[#「足がき」に傍点]が聞えてくることがあつた。皆は兩腕をはすがひに深く懷につツこんで、顎を胸にうづめ、鷺のやうに交る/\片足で立つて、片足は他の片足の脛や股にくつつけ、寒さのために爪先などが感覺のなくなるのを防いだりした。
 一人々々、そこから呼び出されて、取調べられた。ドアー越しに、ピシリ/\と平手でなぐりつける音や、大きな身體がどつかへ投げられたやうな、肉が直接《ぢか》にぶち當る變に鈍い、音が、はつきり聞えてきた。低くうなるのや、鼠でもふみつけられたやうな叫聲なども聞えた。その度に、皆は思はず息をのんだ。だが、然したゞ不安な眼差しを、互ひに交はすことしか出來なかつた。荒々しく戸が開くと、よろ/\になつた百姓が、つツ飛ばされるやうに、のめつて入つてきた。
 鼻血を出し、それが顏一杯についてゐて、鐵道線路の轢死人が立ち上つてきた、といふ風にみえるものもあつた。顏一杯が紫色にはれ上つて、眼が變に上ずつてゐるのや、唇をピク/\ケイレンさせて入つてくるものもあつた。皆は次の順番のくるのを、身體を硬直させながら、反つて、妙にうつろな氣持で待つてゐた。
 源吉はいきなり――いきなり顏をなぐられた、と思つた。自分の體が瞬間ゴムマリ[#「ゴムマリ」に傍点]のやうに縮まつたのを感じた。
「貴樣、皆をけしか[#「けしか」に傍点]けたろツ!」
 源吉は反射的に、自分の頬を兩手で抑へた。と、次が來た。鼻がキーンとなると、強い藥でも嗅いだやうに感じて、――……べつたり尻もち[#「もち」に傍点]をついてゐた。眼まひがした。彼は兩手で床に手をついて、自分の身體を支へた。鼻血の生ぬるいのが、床についてゐる手の甲に、落ちてきた。
「この野郎達案外、皆強情だ! 土ん百姓の癖に生意氣しやがると――」
 側に立つてゐた巡査が、さう云ひながら、腰にさしてゐた鞘のまゝの劍をもつて、滅多打ちに、源吉をなぐりつけた。すると、二、三人の巡査もよつてきて、ふんだり、蹴つたりした。――源吉は、「夢中」になつてゐた。それから少し手をゆるめた。
「どうだ?」
 源吉は、自分でも分らなかつたが、どうしたのか、眼蓋が重たくて、はつきり開けることが出來なかつた。そして顏全體に何か粘土でもぬられてゐるやうで、自分の手で抑へても、それがちつとも顏の感覺に來なかつた。何か別なもの[#「もの」に傍点]をつかんでゐるやうだつた。
「皆をけしか[#「けしか」に傍点]けたつて白状するんだ!」
 巡査が云ふのも、何處かやつぱり一皮隔てた處から聞えてくる氣がした。
「大きな圖體しやがつて、この野郎。」
 その途端に、源吉の身體がひよいと浮き上つた。「えツ!」氣合だつた。――源吉は床に投げ出されたとき「うむ」と云つた。と見る/\肺が急激に縮まつてゆく、苦しさを感じた。そして、自分の體が床から下へそのまゝ、グツ、グツと沈んでゆくやうに感じて……が、それから分らなくなつてしまつた。
 三日間駐在所に置かれて、その暮方、十二、三人が歸つてもいゝ事になつて、表へ出された。幹部のものは札幌へ送られることになつたのでのこつた。
 皆は駐在所の角につながれてゐた、空になつた馬橇に背中を圓くして乘ると、出掛けた。なぐられたあとに、寒い風が當ると、ヒリ/\とそこが痛んだ。吹雪いてゐた。町外れに出ると、それが遠慮なく吹きまくつた。皆は外套の上に、むしろ[#「むしろ」に傍点]やゴザ[#「ゴザ」に傍点]をかぶつて、出來るだけ身體を縮めた。一臺、一臺、元氣なく暮方の、だん/\嚴しくなつてゆく寒氣の中を、鈴をならしながら歸つて行つた。誰も、何も云はなかつた。お互はお互
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