くさうしてゐた。と、今度はそこから一寸離れた自分の畑に歩いて行つた。母にはちつとも、そのことが分らなかつた。
あとで、母はとう/\その晩のことを云ふと、
「馬鹿だなあ」と云つて笑つた。「俺なア、俺アの畑が可愛《めんこ》くてよ。可愛くて。畑、風邪《かぜ》でもひかなえかと思つてな。」
そして、眞面目に「お前だつて、目さめれば、源や文が風邪ひかねえかつて氣ばつけて、夜着かけてやるべよ。」と云つた。
が、何時の間にか、その生命のもとでのやうな土地が、「地主」といふものに渡つてゐた。父親は、ことに、死ぬ前、そのことばかりを口にして、グヂつてゐた。源吉は、それをきく度に、子供ながら、父親の氣持が分ると思つた。源吉が地主の足にかじりついたのは、さう無意味な理由からではなかつた。「畑は百姓のものでなければならない。」さう文字通りはつきりではなくても、このことは、源吉は十一、二の時から、父親の長い經驗と一緒に考へてきてゐた。
源吉は然し、やつぱり外の百姓達と同じやうに、さういふことを、たゞぼんやり考へてゐた(――考へてゐたとは云へない程度であつたが)が、そのぼんやりした考へ? が、今度は、源吉自身の經驗で、少しづゝ形をとつてきた。そしてそのことが、もう一歩思ひ切つた跳進をしたのは、校長先生の話したことであるやうだつた。こんな簡單な、分りきつたことを、然し百姓は一生がかりで分つた、或ひは分らずに終ふことさへあつた。分らずに終ふことが、かへつて多かつた。
「分つてるべよ、地主から畑ばとつかへすのさ!」――かう源吉が云つたのは、理窟でなかつた。源吉はさう背後で云はせる父親の氣持も感じてゐたのだ! 源吉は歩きながら、こんな事が分らない、そして又そこ迄行かうとしない百姓に、心から腹を立て、「勝手にしやがれ、俺ア俺アだ。」と思つてゐた。
七
源吉が、集會の途中、醉拂つて歸つてきた。札幌に行つてゐる勝から、手紙が來てゐた。
――札幌にも雪が降つた。やつぱり寒い。俺達には冬が一番堪へる。朝六時には工場へ行く。冬の朝の六時つたら、俺達若いものだつて身體の節々が痛んで來るほど寒い。油でヒンヤリ[#「ヒンヤリ」に傍点]する帽子をかぶり、背中を圓くして、辨當をブラ下げて出掛けてゆく。俺の前や後にも、やつぱりさういふ連中が元氣のない恰好で急いで歩いてゆく。工場では、ボヤ/\してはゐられない。六時から晩の五時迄、弓のつる[#「つる」に傍点]みたいに心を張つてゐなけアならない。俺が來てから、仲間の若い男が二人も、機械の中にペロ/\とのまれ[#「のまれ」に傍点]てしまつた。ローラーから出てきた人間はまるで大幅の雜巾のやうなヒキ肉になつて出てきた。
一人の方の嬶が、それから淫賣をやつて子供を育てゝゐるといふ評判をきいた。
工場が、大きな機械の※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]る音で、グアン/\してゐる。始めの一週間位は、家に歸つても、頭も、耳も工場にゐるときと同じやうに、グアン/\して、新聞一枚も讀めなくなつてしまつた。俺は、このまゝ馬鹿になつて行くのかと思つた。
夜五時になつて(今では眞暗だ)汽笛が鳴る、さうすると人を喰ふ機械から歸つてもいゝといふことになる、身體も心も、急にガツたりする。歸るのが、イヤ[#「イヤ」に傍点]になるほど疲れてゐる。其處へそのまゝ坐つてしまひたい位だ。俺はかう思つた――百姓は、かういふ工場で働いてゐるもの等より、もつと低い、馬鹿らしい、慘めな生活をしてゐても、あの野ツ原で働くのが、どんなに過勞だと云つたつて、空氣がいゝ、まるで澄んだ水のやうに綺麗な空氣だ。空氣のなかには毛一本程のゴミも交つてゐない。働きながら、歌もうたへる。晝には、畑の眞中に、仰向けになつて、空を見ながら、ぼんやりしてゐたり、晝寢も出來る。ところが、どうだ、こゝは! 俺はこの工場の中を、君に知らせたいのだ、然し、どう知らせていゝのか俺には一寸出來ない。まるで、それに比らべたら、場末のグヂヨ/\した大きな「塵《ゴミ》箱の中で」働いてゐると云つてもいゝ。工場の中は、暗くて、臭くて、ゴミがとんで、ムツとして、ごう/\として、……お話にならない。仕事が終つて出てくるものは、眞黒い顏をして、眼だけを光らして酒に醉拂つた人のやうに、フラ/\してゐる。
こゝに働いてゐる人達は、百姓のやうに、貧乏はしてゐても、何處かがつしり[#「がつしり」に傍点]したところがなくて、青白くて、病身らしくて、いつでもセキ[#「セキ」に傍点]をしてゐる。俺は、そのことを考へて、暗い氣持になつてゐる。石狩川の大平原にゐた方が、と、きまりきつた愚痴が、此頃出かゝつてゐる。本當のところ、其處の生活も亦いゝものではないが。
俺は、村にゐたときから、君とちがつて、どうしても落付いて
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