見た。
五
源吉の母親は、お文が札幌へお祭りの夜逃げて行つてから、何處か弱つてきた。何か仕事をしてゐるとき、フトお文のことを云ひ出した。そして、何時までも、そのことを獨言のやうにしやべつてゐた。源吉は、母親がさういふ事を云ひ出すと、默つて立つて、外へ出て行つた。
秋の更けた、靜かな、ある晩だつた。裏を流れてゐる川のあたりに時々鳥が啼いてゐた。源吉と母親はランプを低く下して、土間にむしろをおいて、草鞋を作つてゐた。
誰か表から呼んだと思つた。
「はアー」と源吉が表にきゝ耳をたてゝ言葉をかけた。
「俺だよ。」校長が、ガタピシする戸を身體であけて入つてきた。
「退屈で、話ししに來た。」と云つた。
爐のそばで、由が假寢をしてゐた。ランプは土間の方に持つて來られてゐるので、そこが暗くつて分らなかつた。
「お文はどうしてる?」何かの話から先生がきいた。母親は、何時もの通り、何度も何度も云つたことを又繰りかへして校長先生にきかした。源吉はだまつてゐた。
「どうして連れもどさないんだ。」
「わし[#「わし」に傍点]なんぼさう云つても、源が駄目でねえ。行きたがらねえんだもの。――札幌ばおつか[#「おつか」に傍点]ながつてるんだべよ。」
「源吉君、どうした。」
「駄目だんす。」源吉はさう云つた。「連れてきたつて、又行くべよ。」
「こんだもの。」母親はあきれたやうに、先生の顏を見た。そのことから、先生が札幌にゐたときの話をした。そしてこんなことを云つた。――若し一度でも都會の味が分つたら、こんな田舍には、とても居られるものでない。電話があつて、どんな遠くの人とでもすぐその場にゐて用事が話せる。自動車が何臺とある。電車がある。それに女は何時でも人形さんのやうに、綺麗に白粉をつけ、長い袖の着物を着て歩いてる。活動寫眞は毎日あるし、芝居も見れるし、音樂會はある。公園がある。
それに男だつて、外國の寫眞に出てくる人達とちつとも異らないやうな恰好で、町をキユツ/\と、光るほどに磨いた靴をはいて歩いてゐる。
「まあ、ねえ――」母がびつくりしたやう[#「母がびつくりしたやう」はママ]
「それにどうだ、百姓は。――」先生は一寸言葉を切つた。
「年中糞こやしの中にうづまつて、眞ツ黒けになつて、男だか女だか分らなくなる。この邊の女の手の皮なんて、まるで雜巾みたいでないか。朝は暗いうちから、それも夜まで。所がそれから又夜なべだ。――それで、ウンと金でも殘るんならいゝさ。ねえ、お母さん。」
先生は變な調子で笑つた。「市《まち》の金持なんて、綺麗なビルデイングあたりで、綺麗な、上品な仕事を、チヨイ/\とやると、もうそれで一日終り。そしてたんまり金が入る。とてもお話にならないさ。」さう云つてから、
「どうだい。」と源吉に云つた。
源吉はだまつてゐた。
「そんでせうねえ!」母親は感心して、「市の立派な人さんだちだものねえ。」
「源吉君分るかい、――この理窟が……」
「…………」
源吉は先生の顏を見たが、何も答へなかつた。そして口に水をふくんで、それを霧打ちにして、藁を木槌で打つた。先生は煙草を喫ひながら、少しだまつてゐた。それから、フト思ひ出したやうに、
「あ、勝君が苗穗の鐵道の工場へ入つたつて、聞いたか。」
「ほんですか。」源吉もひよいと氣をひかれた。「やつぱりねえ。んなもんだ。」
「勝君の家《うち》で云つてたよ。――勝君も亦一苦勞だ。」
「お文ばけしかけたんだ、あの勝!」母親は怒つて云つた。
「なア、源吉君、百姓がたつた一人働けば、自分の一家を食はして行つて、おまけに地主にぜいたく三昧な暮しをさしてやる事も出來るし、その地主のお蔭で生きて行つてゐる人にも恩惠を分けてやることも出來るんだ。大したもんだよ。人間を生かしてやるも、やらないも意のまゝに出來るのは、お百姓と職工だけなんだよ。面白いだらう。」先生はいつも決して見せなかつた笑顏をした。それから笑談のやうな調子で、「偉いもんだよ。世界中で一番偉いのは百姓と職工といふわけになるだらう。ハヽヽヽヽ。ところがねえ、源吉君、その百姓と職工さんが一番貧乏して、一番薄汚くて、一番人に馬鹿にされて、一番働かされてるから、愉快だよ。」
源吉も思はずその調子に引き入れられて、笑つた。母親は、何か、分つたやうな分らないやうな顏をしてゐた。
「面白いよ、こんなことを考へてれば。六月に地主が、皆んなを集めて、何んか饒舌つたらう。お前たちの貧乏するのは何處かお前達に罪があるんだ、働くものに追付く貧乏がないつて。皆もつともだ、もつともだつて、聞いてたツけ。――所が、なんのことない、さうやつて、ウンとこさ働かして置いて、その一番いゝ處をうま/\とひつたくつて行くのが地主だから面白いつて。まつたく地主に追付くものは一つだ
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