が見えなくなつた。
「オ、勝、あのなア、お前こつち側を見て、誰か人がゐたら知らせれ。」
 さう云ふと、源吉はそれと反對側を見守つた。
 十分程下つた。二日も雨が降つたので、水量が五寸位も高くなつて、流れも早くなつてゐた。やがて、石狩川が大きく、ゆるやかにカーブしてゐるところへ來た。すると、源吉は櫂をとりあげて、その可成り強い水流にさからつて、舟を岸につけようとした。勝も櫓をとると、さうした。二人が滿身の力で漕ぐ度に、小さい舟がグラツ/\とゆれた。そして、櫓が弓のやうにしのつた。それに力を入れ過ぎて、自分の力でよろめいたりした。勝は、二、三囘も不態に自分の身體の中心を失つた。舟は二人の力にも拘らず、カーブの眞中の方へ流され勝ちだつた。「ウーツ、ウーツ!」源吉は、まるで文字通り仁王立ちになつて、唸りながら、漕いだ。舟は、やがて二人の努力の千分の一位づゝ效いてきた。
「そらツ! やれツ!」
 勝も身體中が汗ばんできた。
 舟が、そして、川の中心を一間程切り拔けると、あと[#「あと」に傍点]は今度は、その惰勢のように、樂になつた。
「これでいゝ、これでいゝ!」
 舟が砂の岸に、ズシンと乘りあげたとき、源吉は反動でよろめきながら着物の袖で顏中の汗をふいた。
「仕事さかゝる前、ちよつと、上さ行《え》つて、見張つてゝくれ。」さう源吉が、勝に云ふと、彼は、網の中を探がして、丁度野球に使ふバツトとそつくり同じやうな棍棒を出して渡した。勝は、それをめづらしさうに受取つて、苦笑した。
「凄いなア。」
 それを、何か玩具のやうにいぢりながら、砂の崖になつてゐる處をよぢ上り始めた。源吉はその後から、網の端の、ロープをもつて上つた。二人は平地の上に頭だけを出して、まづ、一度用心深く見※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]はしてみた。眞暗でよくは分らなかつた。風がずウと遠くを渡つてゐた。――そしてそれが移つてゆく工合が、はつきり分つた。空は地面と區別が出來なかつた。横なぐりに降つてゐる雨が、時々ひよいと眼の前に白く光つてみえた。
「こつたらどき役人くるけア。」
 源吉は、勝を立たして置いて、前から、それと決めてゐた樹の幹に、そのロープを卷きつけた。幹は雨でヌラ/\してゐて、源吉が力一杯に結ぶと、樹皮がボロ/\にはげて落ちた。しつかり結び終ると、今度は、兩手を幹にかけて、足場をふみならして、力一杯にゆすつた。急に頭の上で葉がガサ/\となると、パラ/\音がして、雨滴が落ちてきた。一寸離れて立つてゐた勝が、その時、ギヨツとしたやうに、源吉の立つてゐる所へ走つてきた。源吉も思はず緊張して、向き直つた。
「何んだ。」源吉は聲をひそめて、然し、鋭くきいた。
「今の、なんだ。」勝は、周章てゝ、どもつて云つた。
「うん?」
「ガサ/\つての。」
 源吉は、「何アーんで。」と云つて、笑つた。「んか、――何アんでえ。俺の方でびつくりしてしまつたで。」
「何んだ。びつくりしたで。」
「樹ば振つてみたんだ。水流が早えから、大丈夫かなと思つて、幹ばためしてみたんだ。そつたらこつたら、その棍棒糞も役に立たねべよ。」源吉は笑つた。
 二人は又舟にもどつた。そして、網をすつかり順序よく舟に積み直すと、源吉は自分で舟を漕いで、勝に、網を下してもらふことにした。舟は眞直ぐ向ひ側に、力一杯に漕ぎ出された。が、さうすると、丁度結局舟は斜め下流に、カーブにかゝつて向ひ側につくことになるのだつた。
 源吉は漕ぎながら、「さア、やつた。」と云つた。勝はドン/\網を水の中になげこんで行つた。向ひ側につくと、源吉は勝に手傳はせて網の端のロープを河には後向きに、肩にかけ、網が水流に流される力に反抗して、岸の樹に結びつけた。二人の力でも、二人とも時々ヨロ/\と後によろけたことさへあつた。それから舟を岸にあげた。
 それで終つた。
 二人は次の朝四時頃、こゝへ來ることにして、そこから畑道に出て、家に歸つた。
 源吉が家に入つて行くと、ランプを消して皆寢てゐた。彼は手さぐりで、臺所に行つて、水瓶からひしやく[#「ひしやく」に傍点]のまゝ、ゴクリ/\と咽喉をならして水を二、三杯續け樣にのんだ。厩小屋で、馬が尾毛で、ピシリ/\と自分の身體をうつ音がした。

      二

 朝の四時は、夜の九時、十時と同じやうに眞暗だつた。それよりは青みを帶びて、何處か底寒かつた。
 川は水が増して、その勢ひで、ロープを結びつけてゐた樹が、たわん[#「たわん」に傍点]で、ゆれてゐた。二人が家を出て、其處に着くまでは雨が止んでゐたのに、仕事にとりかゝつた頃から、又ひどく降り出してきた。
 すぐに網をひきにかゝつた。その水流に逆つて網をひくことは、然し容易な仕事ではなかつた。二人は何度もヨロめいた。そのまんま河ん中に、ひつぱりこま
前へ 次へ
全35ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小林 多喜二 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング