、東の方に移つて行くのがはつきり分つた。源吉のところでは雨が全く止んでゐるのに、石狩川の方に雨が降つてゐる音がした。それが、又だん/\野面を渡つて、後から後からとふり止んでゆく音が、はつきり分つた。
源吉は裏口にまはると、「勝、勝」と呼んだ。
家の中で誰かゞ立ち上つて、土間の下駄をつゝかけながら、來る音を源吉は聞いた。戸をガタ/\させてゐたが、がらつと開いた。光がサツと外へ流れ出た。入口に立つてゐた源吉に、眞向《まとも》に光が來た。
「源さんか。」
「ウン、行くか。」
「行く。一寸待つてくれ。」
「どうだ、」さう云つて、一寸聲をひそめて、「お父《とう》なんか云はねえか。」
「ううん。」勝はあいまいに返事をした。
源吉はニヤツと笑つて、鼻を動かした。今朝源吉は、恐ろしがつて、嫌がる勝に、無理々々承知をさしたのだつた。彼はそのことを思ふと、をかしかつた。
「んだら、早く用意すべし。」と云つた。
一寸經つて、二人は暗い道を歩いてゐた。
「どの邊でするんだ。」
「小《こ》一里のぼるだよ。せば北村と近くなるべ。んでなえと見《め》付かつたどき、うるせえべよ。」
「道廳の役人が入つてるさうだど。」
「んだべよ、きつと。んだから、なほ面白いんだよ。」
「…………」
「道廳の小役人に見付かつてたまるもんけ。あえつ等だつて、おツかながつてるし、今頃眠むがつてるべ。」
源吉は大きな聲で笑つた。が、だだツ廣い平原はちつとも響き返へしもしないで、かへつて不氣味に消えた。
源吉は先に立つて、あまりもの[#「もの」に傍点]も云はずについてくる勝を、引きずツてでもゐるやうに、グン/\歩いてゐた。五分位歩いたとき、又雨が降つてきた。眞暗闇の廣漠々とした平原に雨がザアーと音をさして降つてゐるその最《さ》中を提灯もつけずに歩くのは、勝には、然し、矢張り氣持よくなかつた。
「嫌だなア。」
「うん?」源吉はふり向いて、雨の音に逆つて、きいた。
「あまりよくねえツて。」
「何が。」
勝はてれたやうに笑つた。
しばらくしてから、
「役人は何處に泊つてるんだ。」と、勝が自分の前を歩いてゆく、がつしりした肩をしてゐる源吉にきいた。
「北村だべよ。北村の宿屋だべよ。――お湯さ入つて、えゝ氣持で長がまつてるべ。こつから三里もあるもの、ワザ/\こつたら雨降りに、出掛けて來なべえ。」
「今朝、俺アのお母川さ行つたら、五、六疋秋味が背中ば見せて下つて行つたツて云つたで。」
「ンか、うめえ/\。」
それからしばらく二人ともだまつて歩いた。勝は、大股な源吉に、急ぎ足で追ひつくやうに歩いてゐた。
急に横で、牛が幅の廣い聲で、ないた。思ひがけないので二人ともギヨツとした。
「畜生、びつくりさせやがる。めんこくもねえ牛《べこ》だ!」
すると、ずウと遠くで、別な牛が答へるやうになくのが聞えた。一軒の家が横手に見えた。其處を通り過ぎるとき、思ひ出したやうに勝が、
「芳のことをきいたか?」と、前に言葉をかけた。勝は、芳が札幌へ行く前の、芳と源吉の關係を知つてゐた。
「うん、」源吉は面白くないことを露骨に出して返事をした。「お文も困りもんだよ。」
「…………」
二人は、そこで頭でも鉢合せしたやうに、言葉を切つた。
「勝、お前餘計なこと、お文に云ふんだべ。」
「俺?」
「うん。お前えも、お文に負けなえからなあ。百姓|嫌《え》やになつたんだべよ。」
勝はまだ何も云はなかつた。
「札幌の街《まち》ば見てから、夢ばツかし見てるべ。」
「こつたらどん百姓が、えゝかげん嫌にならなかつたら阿呆だらう。」
「ふん。――俺んだら阿呆だなあ。」さう云ふと、勝の眼の前をふさいでゐる肩がゆるいで、笑ひ出した。「俺ア百姓ツ子だよ。」
勝は、何んかしら、ギヨツとした。が「自慢にもならない。」さうひくゝ云つた。
「勝、お前え、芳札幌で何してるかおべでるか。」
勝は云ひづらさうに「あんまりいゝ處でないさうだツてよ。」
「淫賣《ごけ》でもしてるべよ。」
雨が殆どやんで、泥濘《ぬかるみ》を歩く二人の足音だけが耳についた。
「……淫賣《ごけ》になんかしたくねえよ。」
源吉は獨言のやうに云つた。後になつてゐる勝にはよつく聞えなかつた。
眞暗な野ツ原の夜道を三十分近くも歩いた。
「こゝから川岸に出るんだ。」
源吉は立ち止つて、本道から小さい横道に入つた。「もう直ぐだよ。」
畑と畑との間の細い道だつた。それで、兩側の雨にぬれてゐる草が歩く度に股引に當つた。そして股引が、すぐ氣持惡くぐぢよ/\になつてしまつた。
「さあ、氣をつけるべ。」源吉はさう云つて、背の網をゆすり上げた。「まさか、こつたら雨の日に役人もゐめえよ。」
「俺――」
「うん?」
「…………」
「何んだ?」源吉は振りかへつた。「うん?」
「つかま
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