の顏も見なかつた。見ようともしなかつた。
 踏切りを越すと、前方一帶が吹雪で、眞白い大きな幕でも降ろされてゐるやうに、何も見えなかつた。東の方から少しづゝ暗さがせまつてきてゐた。平野の一本道は、すつかり消されてしまつてゐた。防雪林の側を通つた時にはそれに當る粉雪と強風で、そこから凄みのあるうなり[#「うなり」に傍点]が響いてきた。そして、たゞ天も地も眞白いところに、ぼかし畫のやうに、色々な濃淡で、防雪林が、頭を一樣にふつたり、身體をゆすつたりしてゐるのが見えた。全く何も障碍物のない平野に出てしまつた頃、源吉の馬橇だけは一番うしろで、餘程遲れてゐた。それさへ、然し源吉は分つてゐないやうに見えた。
 源吉は齒をギリ/\かんでゐた。くやしかつた。憎い! たゞ口惜しかつた! たゞ憎くて、憎くてたまらなかつた。源吉は始めて、自分たち「百姓」といふものが、どういふものであるか、といふ事が分つた。――「死んでも、野郎奴!」と思つた――。源吉は、ハツキリ、自分たちの「敵」が分つた。敵だ! 食ひちぎつてやつても、鉈で頭をたゝき割つてやつても、顏の眞中をあの鎌で滅茶苦茶にひつかいてやつてもまだ足りない「敵」を、ハツキリ見た。それが「巡査」といふものと、手をくみ合はせてゐる「からくり」も! ウム、憎い! 地主の野郎! 源吉は齒をギリ/\かんだ。
「覺えてろ※[#感嘆符二つ、1−8−75]」
 雪は眞向から吹きつけるかと思ふと、左側になつてゐたり、後から吹いたりした。馬は全身眞白になつて、年寄つた百姓のやうな、ガラ/\に瘠せた尻を跳ねあげるやうにして、足を動かしてゐた。尻毛[#「尻毛」に傍点]が時々ピシリ/\と身體を打つた。が、風の向きで、その方へなびくこともあつた。眞白になつてゐるたてがみも風通りに動いた。前方を行く馬橇は、吹雪のために、二、三臺位しか見えなかつた。その先きの方は時々、吹雪の工合で、ひよつこり現れたり、見てるうちに又消されたりした。鈴は風の工合でまるつきり聞えないことがあるが、思ひがけなく實際よりもすぐ近く聞えることもあつた。何處からといふことなく、平野一帶がゴウ/\と物凄くうなつてゐた。だん/\薄暗くなつて行つた。
「覺えてろツ!」
 寒さがギリ[#「ギリ」に傍点]/\と、むしろの上から、その下の外套を通して、着物を通して、シヤツを通して、皮膚《はだ》へ、ぢかにつき刺さつてきた。外套についてゐる細かい粉のやうな雪が、キラ/\と、小さいなりに一つ一つ結晶して、ついてゐた。手先や足先が痛むやうに冷えてきた。鼻穴がキン/\して、口でも耳でも鼻でも、こはばつてちつとでも動かせば、それつきり、割れたり、ピリ/\いひさうでたまらなかつた。皆の馬橇は雜木林の並木が續いてゐる處に出た。それは石狩川の川|端《ぶち》に沿つてゐる林だつた。それで始めて、道を迷はずに來たことが分つた。時々、町からの歸りに、吹雪に會つて、道を迷つたものが、半分死にかゝつて、次の朝とんでもない逆の方向に行つてゐることを發見することがあつた。一樣に平なので、方向の見當が、つかないのだつた。
 雜木林は、誰かゞワザ[#「ワザ」に傍点]とにやつてゐるやうなかん高い悲鳴をあげて、ゆれてゐた。それが終ると、その雪をお伴にしてゐる風が、うなりをあげて、平野の中心の方へ、たゝきつけるやうな勢ひで、移つてゆくのが分つた。が、すぐその後から、もつと強いのが追ひかけてきた。源吉の前をゆく馬橇の横で、吹雪が龍卷のやうに大きな物凄い渦卷をつくり、それが見てゐるうちに、大理石のやうな圓筒形のまゝ、別な方からの強風と一緒になつて、馬橇を乘り越して行つた。と、その百姓がかぶつてゐたむしろ[#「むしろ」に傍点]が、いきなり剥ぎとられて、空高くに舞上つてしまつた。風は自由氣まゝに、そして益※[#二の字点、1−2−22]強くなつて行つた。
「覺えてやがれ、野郎ツ※[#感嘆符二つ、1−8−75]」
 源吉の胸一杯は、そのまゝ、この吹雪の嵐と同じやうに荒れきつてゐた。
 源吉は前方に眼をやつた。風呂敷包みか何かのやうに馬橇の上に圓く縮こまつてゐる百姓を見ると、それが自分たち全部の生活をそのまゝ現してゐるやうに源吉には思はれた。このかまきり蟲のやうな「敵」が分らず、分らうともせず、蟻やケラ[#「ケラ」に傍点]のやうに慘めに暮してゐる百姓達がハツキリ見えた。彼等だつて、然し今こそ、敵がどいつだか、どんな畜生だか分つたらう。だが、こんなに打ちのめされた善良な百姓達は、もう一度、さうだ今度こそは[#「今度こそは」に傍点]、鎌と鍬をもつて、ふんばつて、立ち上れるか! 敵のしやれかうべ[#「しやれかうべ」に傍点]を目がけて、鍬をザクツと打ちこめるか!
 ――駄目だ、駄目だ、駄目かも知れない、源吉はさう考へた。然し、えツ、口惜
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