び上ったことがある。知ってるな。和蘭《オランダ》が不作のために、倫敦《ロンドン》から大口の注文があったからだ、とあの時皆は云っていたさ。ところが、今度小樽へ出て聞いてみると、そうでないんだ。その事もあるにはあった、が小樽の大問屋で、大貿易商である※[#「┐<辰」、屋号を示す記号、299−下−4]が、高く売り飛ばすために、買い集めてしまってから、そう宣伝したそうだ。――山の方の百姓はそんな事は知るもんでない。
 次の年、どの百姓も皆青豌豆、青豌豆と青豌豆を作ったものだ。そして一年の丹精をして、大成金を夢見て、さて秋が来たときどうだ! ガラ落ち!――和蘭が大豊作だと云う。然し本当はそれも七分の嘘。落すにいいだけ落して、安く安く買い集めたのは大問屋だった。そのカラクリは仲々分るものでない。――首を縊った百姓、夜逃げした百姓が何人あの年いたか。都会が凡ての支配権を握っているのだ。
 こういう世界へ百姓が首をつん出して、うまく行く筈がない。山の中にいて、市場の景況もあったものでない。工場などでは、昨日[#「昨日」に丸傍点]原料を仕入れば、明日[#「明日」に丸傍点]にはもう売り出せるように品物が出来上る。それが一年中切れ間もなしに続けられるし、売れ工合によっては、自由に出来高の加減もその日その日のうちに出来る。ところが百姓はどうだ。――原料を一回仕入れて、その第一回目の品物が出来上る迄に一年[#「一年」に丸傍点]! この融通のきかなさ[#「この融通のきかなさ」に傍点]! これだけでも分る。
 工場に入って驚いたけれども「機械」だ。仮りに一人の男が毎日毎晩働いて、一年もかかる位の分量の仕事を一日位でしてしまう。――そんな機械でばかり工場が出来上っている。俺達はただ機械のそばについていて、手だけ動かしていればそれでいい。ところが、その眼で農村を見れば、まるで居眠りでもしたくなる程のんびりと昔風でないか!――追い付けるものでない。
 都会にいる地主でも、そんなワケで、地主だけではとても眼まぐるしいこの社会に、太刀打ちが出来て行かない。地主でも。で、百姓からは出来るだけ沢山の小作料を搾ればいいという風に、放ッたらかして置いて、ドンドン別な仕事をやっている。――丁度、岸野のようにだ。だから、例えて云えば「人魚[#「人魚」に傍点]」のようなものだろう。
 上半分だけは「地主」だが、下の半分は「資本家」になっている。ところが、下の部分の資本家の方が、ドンドン上の地主の部分を侵して行く傾向だそうだ。――だから、今時の地主は地主自身、小作人が可哀相だとか、もう少しこの社会に当てはまるように改良してやりたいとか、そんな事に少しでもかまっていられない。逆に自分の方がおかしくなる。小作からは取れるだけ取ったら得、皆そう思っている。
 もう小作人は地主様を当てにして、何んとかして下さるだろう、と待っていたら、百年経ったって待ちぼうけを食うのが落ちだ。研究会の人が農村について云った。今のこの世の中の組織――しくみ[#「しくみ」に傍点]が変らない以上、どんな事をしても農民は駄目になって行く。勿論この忙がしい都会の制度に当てはまるように直して行くこと、例えば百姓がチリヂリ、バラバラに仕事をすると、どうしたってヒドイ目に会うから、まア協同組合、協同耕作、協同経営そんなものでも作って、中に入る猾るい商人に儲けさせない方法もある、然しそれも程度もので、ウマク行く筈がない。――だから、何んと云ったって、ドンドン小作争議をやって、小作人の生活を向上させて行くことだ。これより無い。――要するに、ロシアのように労働者と百姓だけで国を治めて行かない限り、どうしてもウマク行かない。――皆この意見だ。云われて見れば、どれもこれも胸へピンピン来るではないか。
 農村に一国の政治、経済の中心地があったことがあるか。享楽、外交、流行、芸術の中心地であったことがあるか、――考えるさえコッケイだ。昔五つか六つでしかなかった「都会」が短い間にどんなに急激に殖えたか。――人口から云っても、もう半分以上は都会に集ってしまっている。これだけ見ても分る。然し「都会」と「農村」は何処まで行っても敵、味方ではないのだ。ただ、今の世の中のしくみ[#「しくみ」に傍点]がそうさせているので、で、そのように見えているだけだ。
 岸野のことでは面白く話してくれた。――仮りにS村から年五千円上がるとすると、彼奴はそれをまず拓殖銀行に預金する。(一番上品に、知らん振りをしているが、「銀行」というものこそ、百姓の咽喉をしめる親方の総元締であることを見ている百姓が一人でもいるか!)――すると、その金は拓殖銀行から、又農業資金として、年賦貸付になって出て行く。それを直接借りるのは自作農か※[#「┐<△」、屋号を示す記号、301−上−12]のようなものだ。※[#「┐<△」、屋号を示す記号、201−上−13]が時々H町へ行くのは何んのためだか、知っているか。あれ[#「あれ」に傍点]は銀行から、年一割位で金を借りて、それを今度は困っている小作に、月三分か四分で貸してやるためなのだ。――だから※[#「┐<△」、屋号を示す記号、201−上−16」]は他人《ひと》の金を右から左へ持って行っただけで、三分にして年三割六分、全く[#「全く」に傍点]無償《ただ》で二割六分(二割六分!)も儲けているのだ。――その金が、先きにS村から小作料として取り上げた金であってみれば、同じ小作は同じ金で、二回も搾り上げられていることになる。
 岸野はその外に拓殖銀行から株の配当金を受取る。その金が矢張り、何処からでもない、農村から掻き集めて来た金でないか。三重! 又、その金の一部は(例えば)俺達の工場に投資されて、俺達をしこたまコキ使って、それをS村にウンと高く売りつけたとしたら、其処で又同じことが起る。これで一体、同じ小作人は何重に搾り上げられることになるのだ。――彼奴等の仕事はみんなこういうように関連があるのだ。
 それに、このウマイ事を何時迄もウマク出来るように、岸野は商業会議所の議員になったり、市会議員になったりする。イザとなれば警察とも道庁とも、すっかりウマク行く。その職責を持っていれば、又それを使って、逆に、自分の仕事に都合のいい事が出来る。
 仮りにS村がどうも思わしくなくなった、とする。そうすれば、岸野は自分の党派の議員をケシ立てて、S村に鉄道をひかせる。停車場をつける。そうすれば、附近の地価が上る。宅地にしてしまえば、収入では大したちがいだ。――まず、こんな工合だ。
 百姓はまだまだ色々こういう事が分っていない。
 まだまだ分らないだろう。然しな、健ちゃ、どんなに難しくても、長くかかっても、俺達が一番先きに立って、やって行かなければ、誰もやって行くものはないのだ。――阿部さんからの話だと、村にも旭川の農民組合から人が来て、会をやってるそうだ。健ちゃも出るようにして、お互いに呼びあってしていたら、どんなによいかと思う。
 キヌは村へ帰るようなことを云っていた。よく分らないが、帰らなければならなくなるだろう、と云っていた。――よく話をきいてみれば、あれだって可哀相なものだ。あれが悪いばかりでない。百姓の生活だよ。これから村がダンダン底へ落ちこんで行くと、キヌのような女は、殖えらさる一方だ。
 健ちゃのことはよく聞きたがるが、節のこともあるらしいので、知らせていない。
「小樽」と「S村」――上ッ面から見ただけでも、前に云ったことがハッキリ分る。――製缶工場、拓殖ビルディング、一流銀行、××工場、運河、倉庫、公園、大邸宅、自動車、汽船、高架桟橋《コール・ピーヤー》……それ等が、まるで大きな渦巻のように凄じく入り乱れ、喚いている。その雑沓する街を歩いていると、世界の何処に、あの泥だらけの、腰のゆがんだ百姓というものがいるか、と思わせられる。草、山、稲、川、肥料、――これだけが農村だ!――だが、小樽の人は本当の百姓を眼の前で見たことが、一度だって無いかも知れない。
 又書く。
 ただ俺達は何時迄も「百姓」「百姓」ッて誤魔化されていないことだ。――これだけが大切なことだ。みんなに、よろしく。

 こんな意味のことが書かれていた。――健は飯を食いながら、丁寧にそれをもう一度読み直した。それから、それを持って阿部のところへ出掛けて行った。
[#改段]

    八


     「百姓嫌になった」

 雨が二週間以上も続いた。
 初め硝子の管のように太い雨が降った。雷が時々裂けるような音をたてた。――何時も薄暗い家の隅までが、雨明りで明るく見えた。
 それが上らず、そのまま長雨になってしまった。皆が当にしていた雲の切れ目も無くなって、飽き飽きする程同じ調子で、三日も四日も続いた。五日目になると、小作はあわて出した。居ても立っても居られない。どこの家でも百姓が軒下に立って、グジョグジョに腐りかけて、水浸りになっている外を見ていた。
「何んて百姓って可哀相なもんだべな。」
 佐々爺は東京新聞にも読み飽きてしまった。若いものの邪魔になりながら、ゴロゴロしていた。――「可哀相に、手も足も出ない。――はがゆくって!」
 稲が実を結びかけていた大切な時を、雨は二十日間降ってしまった。所々ボツンボツンと散らばっている小作の家は、置き捨てにされた塵芥箱のように意気地なく――気抜けしてしまった。
 一回仕入れた原料が出来上る迄に一年かかる。――七之助はそれに驚いた。然し、それどころか! その一年目にようやく出来上るものさえ、こう[#「こう」に傍点]ではないか。――これじゃ、あのめまぐるしい都会の色々な産業や工業から時代おくれになって、農村が首をしめられ、落ち込んで行くのは分りきったことだ。
「百姓|嫌《え》やになった。」――健は集ってきた友達に云った。
 仕方がなくなると、紙に線をひいて、皆で軍人将棋をやった。――母親は、風呂敷のように皺ッぽい、たるんだ乳房を赤子の口にふくませながら、小さい切り窓から雨の外を、うつろに見ていた。こめかみを抑えて、「あ――あ、雨の音ば聞いてれば頭痛くなる。」
「S村の小作が、身欠鰊みたいに、ズラリ並んで首でもつる時来るべ。んだら見物《みもの》だ。」
 然し誰も笑えもしない。
 五、六人で傘をさして、近所の田を見に出た。誰かがついでに「蛇吉」に寄ってみようと云った。何とか話して置けば、工合がいいことがあるかも知れない。――ワザワザなら、誰がこったら管理人のどこさ来るッて、皆そう思っている。
 吉本は坐ったまま障子をあけて、黄色ッぽくムクンだ大きな顔を出した。小作達だと分ると、瞬間イヤな顔をした。
「何んだな。」
(猫撫で声だぞ!)
「ハ、別に……。」
 お客がいた。――H町の警察署長だった。健達はそれと分ると、理由なく尻ごみを感じた。然し吉本の方が何か周章てたように、
「用事か? 今こっち、一寸……。後で駄目かな。」
「イヤ、その、この雨だもんで、ハ、そのオ、田ば見てきました……。」
「ん――、今度のでは考えてる。――後にしてけれ。」
「あまり作がヒドイので、予め岸野さんの方へ、一つ……」
 健が云いかけたのを、ウルサそうに、
「ん、ん、ん!」と抑えてしまった。「お前等の指図でやるんでないんだ。分ってる。」
 警察署長と管理人!――何かあるな、健は帰りながら気になった。――S村では、まだ時々駐在所の巡査や校長へ、芋や大根や鶏を「初物《はつもの》」だと云うので、持ってゆく。所が[#「所が」に傍点]、その偉い旦那さん達が、裏では村の金持や有力者と、ちアんと結びついている。そんな事を、然し健がどんなに小作に話してやっても、分りッこがなかった。
 夜になると、近しくしている小作が、よく二三人ずつ落ち合った。――「一人で家にいたら、気が馬鹿になる。」
「どうしたら、ええべな。」
「岸野さんどう出るかな……。」
 不貞腐れて、時々酒に酔払ってくる小作も出来た。――辻褄の合わないことを、一人で恐ろしく雄弁にしゃべった。

     「ああいうのば犬ッ
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