ワアッて行けば、何んしろ……」
 皆に聞えるように、わざと声を高めた。
 兵隊は歩きづらい砂地を、泥人形のような無恰好さで、ザクザク歩き出した。だまりこくって、空虚に眼を前方の一定のところにすえたきり、自分のではない、何か他のものの力で歩かせられているように、歩いていた。病人を無理に立たせて、両方から肩を組み、中央《まんなか》にして歩かせた。が、他愛なく身体がブラ下ってしまった。頭に力がなく、歩く度にグラグラッと揺れた。
 皆はゾロゾロ堤を引き上げた。雑木林の中から、その時だった、突如カン声が上った。帽子の色のちがった別な一隊が、附剣をして「ワアッ、ワァッ!」と叫びながら、さっきの兵隊の後横へ肉迫していた。――不意を喰ってしまった。立ち直る暇もなく、そのまま隊伍を潰して、横へそれると、実りかけている田の中へ、ドタドタと入り込んでしまった。見ている間に、靴の下に稲が踏みにじられてしまった。
「あ、あッ、あ――あッ、あッ!」
 田の向うに一かたまりにかたまって見ていた小作人が、手を振りながら夢中に駈けて来るのが見えた。健達も思わず走った。――百姓達には、それは自分の子供の手足を眼の前で、ねじり取られるそのままの酷《むご》たらしさだった。
「何するだ!」
「何するだ! 稲※[#感嘆符二つ、1−8−75] 稲※[#感嘆符二つ、1−8−75]」
 然し兵隊のワアッ、ワアッという声に、それはモミ潰されてしまった。士官は分っていて、号令をやめなかった。――もう百姓は棒杭のように、つッ立ってしまうよりない!
 ようやく「休戦ラッパ」が鳴った。
 兵卒達はそれでも稲を踏まないように、跳ね跳ね田から出てきた。
 士官は汗をふきながら、プリプリして、
「後で主計が廻ってくるんだから、その時申告すれアいいんだ。」
 それは分っている! 然し損害を受けただけを申告すれば、その度に「これを種にして儲けやがるんだろう。」「日本国民として、この位の損害をワザワザ申告するなんてあるか。」と云われる。「帝国軍人のためだと云って、申告しない百姓さえあるんだぞ。」そんな事も云う。――貧乏な、人の好い小作人はどうすればいいか?――小作料を納める時になれば、地主はそんなことを考顧さえもしてくれない。
 兵士達はそれ等の話を気の毒そうに、離れてきいていた。――矢張り小作人の伜達がいるんだろう、健はそのことを考えていた。
 田を踏みにじられた隣りの農場の小作が、壊れた瀬戸物でもつなぎ合わせるように、田の中に入って行って、倒れた稲を起しにかかった。――健にはそれは見ていられなかった。

     「下稽古かも知れないど」

 兵隊の泊った朝、由三は誰よりも先きに起きた。――吃驚《びっくり》したようにパッチリ眼を開けて、家の中をクルックルッと見廻わすと、ムックリ起き上ってしまった。前の日に磨いて立てかけて置いた銃や剣や背嚢の前に坐ると、独言を云いながら、ちょッぴりちょッぴりいじった。魚が餌《えさ》でもつッつくように。
 母親が起きてきた。――母親は吃驚して、いきなり、由三の耳をひねり上げた。
「これッ! 大切なものさ手ばつけて、おがしくでもしてみれッ!」
 健は眼をさましたまま、寝床にいた。――前の夕方、健が納屋から薪を取り出していたとき、すぐ横で、井戸の水をザブザブさせながら足を洗っていた兵隊が話しているのを聞いた。
「ここの家ヒドイな……」
「うん、ま、御馳走はないな――」
「それでも……」
 あと一寸聞えなかった。息をつまらせて笑っている。
「シャンだからな。」
「それに……な、色ッぽいところがあるぞ。」
「あれか、鄙にもまれなる……」
「……埋合せか。」
 声を合わせて笑い出してしまった。
 健は暗がりの納屋の中にいて、一人でカアーッと赤くなった。
 健は昨日からのお恵の燥《はしゃ》いだ、ソワソワした態度にムカムカしていた。
 兵隊が起きると、由三は金盥に水をとってやったり、下駄を揃えてやったり、気をきかして先きへ先きへと走り廻った。お恵は日焼けのした首に水白粉を塗っていた。塗ったあとが、そのままムラになって残っていた。
 飯はお恵が坐って給仕した。すると、由三が口を突がらした。
「兵隊さんに女《めっけア》なんて駄目だねえ。――俺やるから、姉どけよ!」
 兵隊は苦笑してしまった。
 母親は又昨夜のように、御馳走のないことをクドクド繰りかえした。
 昼過ぎから土砂降りになった。六時頃、兵隊は身体中を泥だらけにして帰ってきた。――ものも云えず、一寸つまずいただけで、そのまま他愛なくつんのめる程疲れ切っていた。――母親はそれを見ると、半分もう泣いていた。兵隊にとられるかも知れない健のことが直ぐ考えられた。
 その晩は最後であり、それにゆっくり出来ると云うので、健は母親に云いつかって、裏で雌鶏を一羽つぶした。※[#「┐<△」、屋号を示す記号、289−下−20]からは、「兵隊さんに出すのだから」と云って、ようやく酒を一升借りて来た。
 酔ってくると、兵隊は色々「兵営」の面白いことを話してきかせた。由三は「眠くねえわ、眠くねえわ。」と眼をこすりながら、何時迄も起きていた。
「坊、大きくなったら兵隊になるか。――ハハハハハハ。」
「僕も百姓ですよ。」と一人が云った。「僕の従弟が内地の連隊にいたとき、自分の村で小作争議が起り、それがドエライことになってしまった事があるんです。半鐘は鳴り、ドラはなり、何千人ッていう小作人が全部まア……暴動ッて云うかね、それを起したんですね。どうにもならなくなり、地主連が役所に頼み、役所が連隊に頼み、軍隊出動という処までトウトウ行ってしまったわけです。――が、何んしろその兵隊さんの親、兄弟、親類が村にいるときているし、それに自分等も村にいたとき、毎日毎日地主に苦しめられてきている。――どうにも出来ない。とても苦しかったそうですよ……。」
「ハアねえ――。」母親はワケも分らずうなずいた。
「あんまり御馳走してくれるんで、思い出したんだけれども、――御馳走するどころか、そんな風で案外これア敵かたきでないかと思ってネ。」
 と云って、大声で笑った。――「この辺はどうです。僕の村あたりだと、毎年のように小作争議が起りますよ。何処だって村は困っているし、又困って行く一方ですからね。――ネ、何時か僕等が附剣して、この村へワアッて、やって来ることでもあるんじゃないかと思ってネ……。」
「まさか!」思わず皆で笑い出した。
 後で、フトこの話を健が阿部にした。
「それア本当だよ。」と阿部が考え深そうに云った。「あんまり内地で、所々に農民騒動が起るんで、今度の演習だってその下稽古かも知れないど……。」

 次の昼頃、ラッパの音が聞えると、皆村道に出て行った。
 お恵は髪を綺麗に結い直して、由三を連れて出た。畦道を縄飛びをする時のように、小刻みに跳躍しながら走った。
 村を出て行くラッパの音は、皆を妙に興奮させた。それを聞いていると、何か胸が一杯になった。足並の揃ったザック、ザックという音と一緒に埃が立った。二日でも自分の家に泊った兵隊が通ると、手を振っている。
「あらあら、俺れアの兵隊さん!」
 眼ざとい由三が見つけると、姉の手を引張った。
 心持ちこっちへ顔を向けて――その顔が笑っている。お恵は耳まで真赤になった。そして手を挙げた。が、胸のところしかあがらない……。
 ラッパの音が遠くなった。
 そして行ってしまった。
 皆は兵隊の残して行った革の匂いと埃の中に、何時迄も立ちどまって見送っていた。――
[#改段]

    六


     「あれは口の二つあるダニ[#「ダニ」に傍点]だよ」

「お茶ば飲みに来ないか。旭川の人も来るし、二三人寄るべから。」
 前から伴や阿部のところに、四五人集ることのあるのは知っていた。健は始めてだった。
 仕事が終ってから、藁屑のついた着物を別なのに着かえて出掛けた。由三は独り言を云いながら、壁へ手で犬や狐の恰好の影をうつして遊んでいた。
「兄ちゃ何処さ行ぐ?――由も行ぐ。」
 出口までついて来て、駄々をこねた。
 もう秋めいている。夜空に星が水ッぽい匂いをさせて一杯にきらめいていた。実りの薄い稲の軽いサラサラした音がしていた。
 政府の「米買上げ」と不作の見越しで、米の値は「鰻上り」に上ってきている。然しその余沢の一ッこぼれさえ百姓にはこぼれて来ない。――今時米を手持ちしているのは誰だろう。百姓でだけはない[#「百姓でだけはない」に傍点]。みんな一番安い十一月、十二月に俵の底をたたいてしまっている。――どんな百姓でも「米買上げ」が自分達には「クソ」にもならないことだけは知っていた。
「んでも、政府さんのする事だもの、やっぱし深い考えあるんだべよ。」と云っていた。
 健がムキになって「買上げ」をコキ下したとき、佐々爺が手に持っていた新聞[#「新聞」は底本では「新間」]をたたいて、
「え、え、え、東京新聞も碌ッた見もしねえで、何分るッて! お前えみだいた奴の、小さいドン百姓の頭で何が分るッてか。お前えより千倍も偉い、学問のある東京の人が考えて、考えて決めた事だんだ。――東京新聞ば読め! 東京新聞ば読んでからもの云うんだ。ええか!」――顔をクシャクシャにさせた。
 今年はこの後若し雨にでも降られれば「事」だった。
 阿部の家の前の暗がりで、不意に犬が吠え立った。家の中から誰か犬の名を呼んでいる。小さい窓を大きく影が横切って、すぐ入口の戸が開いた。阿部が顔を出した。
 旭川の人はまだ来ていなかった。
 八人程集っていたが、若いものは健一人だけで、皆家をもっている農場でも真面目な年輩の小作ばかりだった。それは意外だった。健は漠然と若い人達ばかりと思ってきたのだ。――然し、その人達を見ると、やっぱりこれが本当だと思わさった。太い、ガッシリした根が、眼には見えず農場の底深くに、しっかり据えられているのを感じた。
「作」のことが、やっぱり話に出ていた。
 吉本管理人は、いくら田を見せて頼んでも、決してそのまま岸野に知らせてやってはくれなかった。裏では、吉本を本名で呼ぶものはいない。「蛇吉《じゃきち》蛇吉」と云っている。管理人だから黙っているけれども、誰かに不幸があったとき、地主が小作人に送って寄こす「香奠」から頭を割った[#「頭を割った」に傍点]。自分ですっかり書き直して、それから小作のところへ香奠を持ってきた。道路や灌漑溝の修繕工事をすると云って、日雇賃を地主から出さして置いて、小作人を無償《ただ》で働かし、それをマンマと自分のものにしてしまった。小作料の更新をするぞ、とおどかして、「坪刈り」にやってくる。然し本当は嘘で、自分の家に何百羽と飼ってある鶏や鵞鳥や七面鳥のエサにするための口実でしかなかった。
 この「蛇吉」はH町のある料理屋の白首を妾同様にして通っていた。
「地主さんより上《う》ワ手《て》だ。――地主さんはそう悪くないんだ。吉本よ、あの蛇吉よ!」
 小作人のうちではそう云っている。
「あれアダニ[#「ダニ」に傍点]だよ。」
「口の二つあるダニ[#「ダニ」に傍点]だ。」――健は自分で赤くなって云った。「一つで地主の血ばとって、もう一つで小作から吸うんだ。」
「ん。」
「地主からなら吸う血があるべども……」
 健が云いかけると、みんな云わせないで、「それさ。そこさ。それが大切などこさ。」――伴がガラガラな大声をたてた。
「何かあったら、彼奴ば一番先きにヤルんだ。」

     「血書」

「健ちゃ、徴兵よかったな。大した儲けだな。」――近所の小作だった。紙縒《こより》を煙管の中に通していた。「石山の信ちゃとられたものな。」
「ん、ん。可哀相なことした。」
「ところが、信ちゃ喜んでるんだとよ。――兵隊さ行ったら、毎日芋と南瓜ばかり食ってなくてもええべし、仕事だってこの百姓仕事より辛い筈もなし、んだら一層のこと行った方がええべッて……。」
「まさか……。」
「んでもよ、働き手ば抜かれてしまうべ、行《え》けるんだら親子みんなで[#
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