る友達に、絵ハガキで是非ランプのことは云ってやらなければならないと思った。
日が暮れかかると、小作人がボツボツ集ってきた。土間にムシロを敷いて、高張りの提灯を幾つも立てていた。令嬢を見ると、小作人達は坐り直して、丁寧に挨拶した。教会に通っている令嬢には、百姓は「野にいる羊」のように純真に思われた。父が経営している小樽のS工場の傲慢な職工達とは似てもつかない、と思った。
「それだけ、それだけで終ってしまった」
武田が仲間の二三人と一緒に、少し早目にやって来た。岸野に会って、普段から種々お世話になっている幾分もの御恩報じとして、この機会に自分達で角力《すもう》大会を開いて御覧に入れたいと思っている、と云った。岸野は滅多になく、顔形をくずして喜んだ。
岸野は上機嫌だった。――庭先の、少し高い所に立って、小作に向って簡単な「訓示」を与えた。そしてすぐ奥に入ってしまった。吉本が是非そうしなければならないと云ってあった。
「で、順々に一人ずつ、奥でお会いするそうだから。」
そう云うと、皆の中から、
「吉本さん、吉本さん!」と、中腰をあげて、伴が呼んだ。
「色々と地主さんに聞いて貰わなけアならない事もあるし、又皆に話して貰わなけアならない事もあるし、是非一つここで……。」
「それア出来ないんだ。」
皆は急にガヤガヤ話し出した。
「ア、皆そうやっちゃ駄目だ。――静まってけれ!」
吉本が一生ケン命制した。「今度のお出は、そんな面倒なことは一切抜きにしたものだから、それは又何時かの機会にして貰いたいんだ。――頼む!」
「そうだ、そうだ、伴さん、酒席でもあるしな。」
小作のうちで、そう云うものもいた。
「どうだ! 健ちゃ、分るべ。」
めずらしく阿部も興奮していた。
「一杯食わせやがったんだね。――阿部さん、会った時やったらええでしょうさ。」
「会った時? 一人と一人でか?――駄目、駄目! ちりちりばらばらだからな。」
「……………」
健は何か不服だった。「お会い」するのは、ただ顔をみて「まア、しっかりやってくれ」というだけだった。――じゃ、その機会をつかもう、健はそう思った。
二枚重ねた座蒲団の上に、物なれたゆるい安坐《あぐら》をかいて、地主が坐っているのを見ると、外で見たときとはまるで異った――岸野の存在がその部屋一杯につまって、グイと抑えつけているように感じた。――健を見ると、軽く顎だけを、それも顎の先きだけを、分らない程に動かした。
「田口健です。」吉本が取次いだ。
「ウ――これか?」
一寸管理人を見て、それから側に坐っていた奥様と令嬢へ、「これが農場一の模範青年なんだぜ。」と云った。
「まア、しっかりやってくれ。――これからお前達が一番頼りだんだからな……。よしよし。」
そう云って顎だけを動かした。――管理人はもう次ぎを呼んでいた。
それだけ、それだけで終ってしまった。
健は身体中汗をグッショリかいていた。健は阿部と顔を合わせられなかった。カアーッと逆上《のぼ》せていた。――気おくれし[#「気おくれし」に傍点]た、意気地のない自分を、紙ッ片れか何かのように、思いッ切り踏みにじってしまいたかった。
「のべ源」はもう酔払って、眼を据えながら、誰か相手でも欲しそうに見廻わしていた。
「健ちゃ、健ちゃ、健ッたら!」
健は返事をしなかった。
「健よオ! 何そったら不景気な面してるんだ。」
健はだまったまま、暗い外へ出て行った。
[#改段]
五
土方
大陸的な太陽が、ムキ出しな地面をジリ、ジリ焼いていた。陽炎が白熱した炎のように、ユラユラ立って、粗雑に敷設されたトロッコのレールが、鰻のように歪んで見えた。――土の熱いムレッ返しが来る。
土方は皆褌一つで働いていた。身体は掘りかえして行く土より赭黒く焼けて、土埃のかかった背中を、汗が幾つにも筋を引いて、流れている。鮮人は百人近くいた。
急カーヴへ来ると、いきなりトロッコの外側が浮き上る。浮き上った片方の車輪が空廻りした。――健達は五六人藪入り前を、ここへ稼ぎに来ていた。仕事は危なかった。
それは空知川から水を引いて、江別、石狩に至るまでの蜒々二十何里という大灌漑溝を作るための工事で、一旦それが竣成すれば、その分派線一帯にかけて、何千町歩という美田が出来上る。北海道の産米がそれで一躍鰻上りに増えるのだった。
村長を看板にし、関係大地主が役員になって、「土功組合」を組織し、北海道庁から「補助金」や「低利資金」の融通を受ける。拓殖銀行は特別低利で「年賦償還貸付」をした。北海道拓殖のためだった。――その工事は「監獄部屋」に引受けさせる。土方を使えば、当り前一日三、四円分位の労働《はたらき》を五、六十銭でやる。で、頭《あたま》が二重にも、三重にもハネられた。
大地主は只《ロハ》のような金で、その金の割合の何十倍もの造田が出来た。造田さえされれば、「低利資金」位は小作料[#「小作料」に傍点]だけで、ドシドシ消却出来た。
――健にも分る。これだけのことを見ても、結局の背負いどころは誰か。――小作人と土方! それがハッキリ分る気がした。
「アッ!」誰か叫んだ。
トロッコが土煙をたてながら、顛覆した。裏返えしになったトロッコの四つの車輪だけが、惰勢でガラガラと廻った。――乗っていた土方は土の下になってしまった。然し、誰もそれにかまっていない。――日雇いに行っている健達は思わず立ち止って、息を殺した。
「次のトロッコが矢張りな、見るに見兼ねて、少しグズグズしてたッけア、止っちゃいかん、止っちゃいかんッて、棒頭が怒鳴ってたど。」
健達は今度S村附近に陸軍の演習があるので、その宿割を受けていた。
「兵隊さんだけには、白い飯《まま》食べさせなかったら、恥だからな。」
母親に何度も、何度も云われて、稼ぎに出ていた。然し村から稼ぎに行っているものは、三日と続かなかった。途中でやめてしまった。
「ま、俺達途中でやめれるからええが、土方達はどうする……」
帰り道は、身体中痛んだ。肩がはれ上って、ウミが出た。
「土方人間で無えべ。――土方と人間が喧嘩したって歌あるんだからな……。」
「佐々爺云ってたども、北海道の開拓はどうしたって土方ば使わねば出来ないんだってよ!」
「んだかな。」
「馬鹿云うもんでねえよ!」
健はムカムカした。
「飯場さ入る時な、皆ば裸にしてよ、入口でヒー、フー、ミー、ヨーッで数えるんだ。――窓って窓は全部釘付けよ。」
健は明日からもうやめた、と思った。――兵隊にだって、俺達と同じ黒飯を食わしたって構うもんか、要らない見栄なんてしない方がいいんだ、と思った。
次の朝三時頃、表から仲間が呼んだ。
「俺アもうやめた。」
行けば行けると思っていたのに、眼がさめると、身体が痛くて匍うことしか出来なくなっていた。
「何んだって※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」――母親がむっくり頭をあげた。
健はもの[#「もの」に傍点]も云わずに又蒲団をかぶった。
「健――これ健ッ、もう二日我慢してけれ、な、もう二日!」
「続かない。身体|痛《え》たくて、痛たくて!」
それっ切りだまった。耐え性なく、それに眠かった。
母親は思い切り悪く、何時迄も枕もとでクドクド云っていた。それを、うるさい、うるさいと思ってききながら、何時の間にか又眠っていた。
「ハッ、兵隊さんだな」
裏の畑のそばで、由三が蹲んで、
「日本勝った、日本勝った、ロシア負けたア……」
「日本勝った、日本勝った、ロシア負けたア……」
枝切れで蟻穴をつッついていた。
「赤蟻、露助。黒蟻、日本。――この野郎、日本蟻ばやッつける積りだな。こん畜生。こん畜生!」
ムキになって、枝の切れッぱしで突ッつき出した。
「こら、こら、――こらッ!」
遠くで銃声がした。由三はギクッと頭を挙げた。――続いて又銃声がした。由三は枝ッ切れを投げ捨てると、いきなり表へ駈け出した。眼をムキ出して駈け出した。
「ハッ、兵隊さんだな!」
「何するだ、稲が、稲が※[#感嘆符二つ、1−8−75]」
昼頃、宿割をきめる軍人と役場の人がやってきた。健達は「青年訓練所」から演習の見学のために、一日だけ参加しなければならなかった。――軍人と辛苦をともにして、如何《どん》な難事にも耐える精神を養うのだ、というのだ。危い、危い、健は然し今ではもう行く気がしていなかった。――云うことだけは立派だ。「難事に耐える!」だが、何んの難事に耐えるのか。「裏」を見ろ! いくら食えなくても、小作人はジッとしていなければならない、ということの演習ではないか!
朝から、遠くで銃声がしていた。飛行機が高く晴れ上った空に、爆音をたてて飛んだ。向きの工合で、翼が銀色にギラギラッと光った。小作人達は所々に立ち止って、まぶしそうに額に手をかざして、空を見上げていた。――子供は夢中だった。
健は由三にせがまれて、外へ出た。ジリ、ジリと暑かった。だまっていても、腋《わき》の下が気持悪くニヤニヤと汗ばんだ。由三は今ようやく出来かけている口笛を吹きながら、手にぶら下ったり、身体にからまって来たり、一人で燥いでいる。
市街地に入ると、郵便局の前に毛並のそろった軍隊の馬が、つながっていた。小さい鞄を腰にさげた兵士が頼信紙に何か書いていた。
「ええ馬だな。――俺アの馬ど比らべてみれでア!」
由三は馬の側を離れないで、前へ廻ったり、後へ廻ったり、蹲んで覗き込んだ。
「兄ちゃ、来年《らいしん》[#ルビの「らいしん」はママ]兵隊さ行けば、馬さ乗るんだべか。ええなア!」
街にはどの家にも宿割の紙が貼らさっていた。――市街地に出ると、銃を肩にかけ、胸のボタンを二つ程外して、帽子の下にハンカチをかぶった兵隊が三人、靴底の金具をジャリジャリさせて、ゆるい歩調でやってきた。
「S村って、これですか。」――市街地を指さした。片手に地図を持っていた。
由三が健より先きに周章《あわ》てて答をひったくった。
「んですよ。」と云った。
それだけで、それが由三には大した名誉なことに思われた。
銃声は東の方から起っていた。それで基線道路から殖民区域七号線へ道を折れて入った。少し行くと、処々道に見慣れなく新らしい馬糞が落ちていた。
「あらッ! あらッ! あら、なア!」
由三が頓狂に叫んだ。田圃《たんぽ》を越して、遠く、騎兵の一隊が七、八騎時々見え、かくれ、行くのが見えた。――もう、由三は夢中だった。河堤に出ると、村の人達が二三十人かたまって、見物していた。由三は健の手を離れて、先きに走り出してしまった。見ていると、人の腋の下を潜り、グングン押しわけて一番前へ出てしまった。
百人近くの兵隊が銃を組んで休んでいた。ムレた革と汗の匂いが、皆の立っている処までしていた。――日蔭になっているところには、上半身を裸にして、仰向けに寝ているものが二三人いる。どの兵士も胸の中にがっくり頭を落したり、横になったり――皆ぐったりしていた。然し顔だけは逆上せたように、妙に赤かった。それが気になった。汗が上衣まで通って、背の出張ったところ通りの形にグッショリ濡れていた。
「どうしたんだべな。」
「追《ぽ》われて来たんだべよ。――見れ、弱ってる!」
不意に、あまり遠くない処で銃声がした。雑木林から吹き上げられたように、鳥の群が飛び立った。続いて銃声がした。――と、上官らしいのが列外へ出て、何か号令をかけた。ガジャガジャと金具の音が起った。が、皆はどうにもならない程、疲れ切っていた。
「グズグズしちアいかん! グズグズしちアいかん!」
上官がカスれた声で怒鳴った。
「やっぱり兵隊って、ええものだね。――ラッパの音でもきいたら、背中がゾクゾクしてくるからな。」
健の隣りで話している。――「青島」で右手がきかなくなってから、働くことも出来ず、半分乞食のような暮しをしている「在郷軍人」だった。
「戦争だって、考えたり、見たりする程おッかねえもんでねえんだ。
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