が同意した。
 ――小さい口論の渦が巻く。
 突然S村で、煙火が挙がった。
 真夏の高い青空に、気持よく二つにも、三つにもこだまをかえして、響き渡った。
「ワアッ!」
 由三達はカン[#「カン」に傍点]声をあげて、跳ね上った。
「さ、遅れたら大変だど!」
 皆はもと来た道を走り出した。遅れたのが、途中で下駄を脱いだ。
 岸野農場の主人が、奥様と令嬢同伴で、農場見物にやって来ることになっていた。――それが今日だった。
 東京にいる、爵位のある大地主も、時々北海道へやってきて、小作人や村の人達を「家来」に仕立てて、熊狩りをやった。
 ――S村では、村長を始め※[#「┐<△」、屋号を示す記号、276−上−15]の旦那、校長などは大臣でも来たように「泡を食って」いた。

     地主、奥様、御令嬢

 自動車二台が真直ぐな村道を、砂塵を後に煙幕のようにモウモウと吹き上げながら、疾走してきた。岸野農場の入口には百十七、八人の小作が、両側に並んで待っている。町へ一日、二日の「出面《でめん》」を取りに行っているものも休んで出迎えた。
 暑かった。皆は何度も腰の日本手拭で顔をぬぐった。
「もう少しな、俺達の忙がしい時にな、来てもらったらええにな。」
「働いてるどこば見てければな。」
「ん、ん、んよ。」
「奥様は何んでも女の大学ば出た人だと。」
「大学?――女の? ホオ!」
「とオても偉い、立派なひとだとよ。」
「女、大学ば出る? 嘘云うな、女の大学なんてあるもんか。……まさか、馬鹿ア、女が……。」
「んだべ、何んぼ偉いたって!」
 一かたまり、一かたまり別な事を云っていた。
「な、旦那もう少し優しい人だら一生ケン命働くんだどもな。」
「働いだ事《ごと》無えから分らないさ。」
「今度《こんだ》あまり急で駄目だったども、こんな時あれだな、皆で相談ば纏めて置いてよ、お願いせばよかったな。」
 阿部はみんなの云うのを聞いていた。――阿部には、今度「見物」に来るということをワザと管理人がその前の晩になって知らせた魂胆がハッキリ分っていた。二年程前、それで管理人が失敗していた。皆が普段からの不平を持ち寄って、岸野の旦那が来たとき、それを嘆願した。その事から大きな事件になりかけた事があったからだった。――で、今度は管理人に出し抜かれてしまった。
 自動車の後の埃の中をベタベタな藁草履をはいた子供達が、四五人追いかけていた。のろくなると、皆は鈴なりに後へブラ下ってしまった。――自動車は農場の入口の管理人の家の前で、ガソリンの匂いをはいて、とまった。
 袖を軽く抑えて、着物の前をつまみ、もの慣れた身腰で、ひらりと奥様が降り立った。
「まア、とてもひどい自動車なこと!」――上品に眉だけをひそめた。
 続いて、一文字を手にして、当の主人が白絣に絽の羽織で、高い背をあらわした。その後からクリーム色の洋装した令嬢が降りた。後の自動車には、出迎えに行った村長、校長、管理人、それにH町の警察署長が乗っていた。
 小作達は思い、思いに腰をかがめて挨拶した。
「ハ、まア、よオく御無事様で……」
 佐々爺は手拭で顔をゴシゴシこすりながら、何べんも頭を下げた。もう身体中酒でプンプン匂っていた。人集りに出るときは、佐々爺は何時でも酒をやらないと、もの[#「もの」に傍点]が云えない癖があった。
「お前達も達者で何よりだ。――ま、一生ケン命やってくれ。」
 皆は一言、一言に小腰をかがめた。佐々爺は、小さい赭《あか》ら顔を握り拳のようにクシャ、クシャにしながら追従笑いをした。
「本当に、ご苦労ね。」
 奥様は広々とした田を見渡すと、軽く息を吸い込んだ。
 小作の女房や娘達は、ただ奥様と令嬢だけに見とれていた。後にゾロゾロついて行きながら、着ているもの[#「もの」に傍点]が何かお互いに云い合った。が、北海道の奥地にいる小作の女達には、見たことも、触ったこともないものだった。柄のことでも同じだった。古くさい、ボロボロな婦人雑誌の写真でだけしか、そういう人のことは知っていなかった。――然し、何より「自分達の奥様」がこんなに立派な人だということが、皆の肩幅を広くさせた。
「馬鹿、お前からして見とれる奴があるか!」
 伴が自分の女房の後を突いた。
 岸野は畔道にしゃがんで、
「どうだい、今年は?」と、稲の穂をいじりながら、吉本管理人にきいた。――昔の地主などとちがって、岸野は田畑の事には縁が遠く、ただ年幾らの小作料が手に入るしか知っていなかった。
「ええまア並です。二番草の頃は、とてもよかったんですが、今月の始め頃にかけて虫が出ましてね。殊に去年は全部駄目と来ているから、今年はどんなに良くても小作はつらいんです。――余程疲弊してるんで……。」
「ん……で、どうだい様子[#「様子」に傍点]は……?」
「え、今のところは……矢張り秋になってみないと。」
 ――お互いに声が低くなっていた。
「気をつけて貰わないとな。」
「それア、もう!」
「ん。」
 岸野は正直に云って、時々後から不意に田の中へ突きのめされはしないか、という脅迫めいた恐怖を感じていた。何かの拍子に、何度も何度もギョッとした。一町も行かないうちに、汗をびっしょりかいていた。然し表面だけの威厳は持っていなければならなかった。
「この前のように、嘆願書をブッつける事はないだろうな。」
「その点こそ、今度は大丈夫ぬかりませんでした。」
「ん。」それで安心した。――然し後の方は口に出しては云わなかった。そして鷹揚にうなずいて見せた。持っていた穂を田の中に投げると、小さい波紋の輪が稲の茎に切られながら、重なり合って広がって行った。
「ね、お百姓さんって、何時でもこの水の中に入って働くのねえ!」
「そうで御座います、お嬢さん。」
 二つ三つ田を越したところで、丁度同じ年位の娘が頬かぶりの上に笠をかぶり、「もんぺい[#「もんぺい」に傍点]」をはいて、膝ッ切り埋って働いているのが見えた。顔に泥がハジけると、そのまま袖でぬぐっている。
「あれじゃ足も手も――身体も大変ね!」
「えええ、その何んでもないんで御座います。」――追従笑いをした。
「あたし学校の参考に稲を二、三本戴いて行きたいんですけれど……」
 女房達が争って稲を取りにかかった。――吉本管理人は、これアうまい、と思った。
「矢張り何んてたって、大したもんだ。」
 女房達は小腰をかがめながら、稲を差出した。令嬢は、「有難う。」と云いながら、フト差出された女達の手を見た。手? だが、それは手だろうか!――令嬢は「ま!」と云って、思わず手の甲で口を抑えた。
 一通り田畑を見てしまうと、「いとも」満足の態《てい》で、一行は管理人の家へ引き上げた。

     「伴さん」

 晩には小作人全部に「一杯」が出るので、皆はホクホクし乍ら二三人ずつ、二三人ずつ帰って行った。
「なア、えッ阿部君! 汗が出たアど。」
 伴がガラガラ声で、百姓らしくなくブッキラ棒に云った。
 阿部は何時ものように黙って笑った。健はこわばった顔で、少し後れてついて行った。それに伴や阿部付の人達が四五人一緒だった。――後から来る人達は、地主や奥様達のことを声高に噂し合っていた。
「あいつ[#「あいつ」に傍点]等の着ているペラペラした着物なんて、俺達がみんな着せてやってるんだ位、もう分ってもええ頃だな。」
 前を歩いていた小作が振りかえった。
「伴さんにかかると、かなわないね。」
 伴もそれと一緒にウハハハハハと大声を出して笑った。
 伴は何んでもズバズバ云ってのける癖があるので、地主から一番「にらまれ」ていた。管理人が遠廻しに、小作権を坪幾何の割で買取ってもいいとよく云ってくる。――何時でも態《てい》のいい追い出しを受けていた。が、反対に少しおとなしくしてくれれば、「管理人」にしてやるがという交渉もあった。が、その度に伴のあたりかまわない「ウハハハハハ」に気をのまれて帰って行った。
「な、ええオ――イ、勝見さんよ、ボヤ、ボヤしてると、キンタマの毛ッこひん抜かれてしまうべよ。」
 大きな声で前のに云うと、又ウハハハハハと笑った。
「ハハハハハハハハ。」――向うでも笑っている。
 黙っていた阿部が、「伴さん、晩に管理さんのとこさ行ぐ時、一寸寄ってけねか?」と云った。
「ん、ん。」
 伴は着物をまくって棒杭のような日焼けした、毛むじゃらの脛を出して、足をいたずらにブラブラさせたり、石を蹴ったりして歩いていた。

     「のべ源」

「どうだ、健ちゃ。」後からのッぽの「のべ源」が声をかけた。
「あのどっちでもええ、一晩抱いて寝たらな。」
「何んだ、お前今迄かかって、そったら事考えていたのか。」
 健は、初めて、ムカッムカッと云った。
「それんか他にあるか。」ニタニタ笑った。
 のッぽの「のべ源」をS村の小作達は、時々山を下りて来る「熊」よりも恐ろしがっている。飲んだら「どんな事」でも平気でした。馬鹿力を出すので、どの小作だってかなわない。「のべ源」の乱暴をとめようとして、五、六人泥田に投げ込まれてしまった事がある。それに女に悪戯した。
 酔いがさめると、手拭で頭をしばって、一日中寝た。
「俺ア何アんもしねえど。俺ア――俺だけア何んもしねえど!」
 きまって、そう云いながら唸り続けた。
 健とは不思議に気が合った。――毎日の単調さ、つらい仕事、それで何処迄行っても身体の浮かない暮しをさせられていれば、誰だって若い男[#「若い男」に傍点]は「のべ源」になる。ならずにいられるものでない。皆、心の隅ッこに「のべ源」の少しずつを持っているんだ。健はそう考え、「のべ源」には他の人のような悪意は感じていなかった。――どの村にも、実際ぐうだらはいたし、居る筈だった。
 ――然し、何時迄グウだらを繰り返えしたって、どうなるものか、健は此頃はそう思ってきていた。グウだらが悪いんじゃない、グウだらにさせるものがある。それを誰も知っていない、そう思った。
「な、ま、ええさ。今晩飲めるんだ。」
「源、酒の……」
「のべ源」は、分ったよ、分ったよ、という風に頭を振った。伴は「どうしたい。」と、ひやかした。
「模範青年さんにかかるとネ。」頭をかいて、眼を細くした。
「模範青年ッて誰だ※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」
 健は不機嫌に云うと、そのまま黙ってしまった。
 阿部は口の中だけで笑っていた。

     「野にいる羊」

 女達は酒盛の用意のため、三時から管理人のところへ出掛けて行った。嫁取りだとか、法事だとか、何かのお祝いだとか、そういう事だと、お恵達は誘い合って、喜んで出掛けた。――管理人の家の炊事煙突が、めずらしくムクムク煙をはいていた。裏口から襷をかけて、太い腕をまくり出した女達がザルを抱えたり、葱をもったり忙がしく出入りした。
 令嬢は、軽い頭痛を覚えていた。――汽車の窓から見たり、色々な小説を読んだりして、何か牧歌的な、うっとりするような甘い、美しさで想像していたチョコレート色の藁屋根の百姓家! それが然しどうだろう。令嬢は二三軒小屋をのぞいてみた。――真暗な家の中からは、馬糞や藁の腐った匂いがムッと来た。暗がりから、ワア――ンと飛び上った金蠅の群が、いきなり令嬢の顔に豆粒のように、打ツかった。令嬢は「アッ!」と声をたてた。腹だけが大きくふくれて、眼のギョロッとした子供が、炉の中の灰《あく》を手づかみにして、口へ持って行っていた。上り端に喰いかけの茶碗と、塩鱒の残っている皿が置きッ放しになって居り、それに蠅が黒々と集《たか》っていた。隅ッこに、そのままに積み重ねてある夜具蒲団の上から、鶏がコクッ、コクッと四囲を見廻わしながら下りて来た。……管理人のところへ帰ってから、濡らしたハンカチを額にあて、令嬢はしばらく横になった。
 夜になると、「ランプ」がついた。令嬢は本当のランプを見るのが始めてだった。都会のまばゆい電燈になれた眼には暗い。まるで暗い。然しランプの醸し出す雰囲気は、始めて令嬢を喜ばせた。
「素敵だわ!」
 小樽や東京にい
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