面目にうなずいた。
恐らく、どんな労働者よりも朝早くから、腰を折りまげて働いている百姓が、都会の場末に巣喰っている朝鮮人よりも惨めな生活をしている。それでも農村の青年は「軽チョウ浮ハク」だろうか。――これ以上働かして、それでどうしようというのだ。――健は、出鱈目を云うな、と思った。
「七《しっ》ちゃ、小樽行きまだか。」
「ん、もうだ。」
「もうか?」
又、七之助とも離れてしまわなければならないか、と思うと、健は淋しかった。――健の好きなキヌも札幌へ出て行っていた。製麻会社の女工に募集されて行ったのだった。然し、それが一年しないうちに、バアの女給をしているという噂になって、健の耳に戻ってきた。
……話が途切れると、泥濘《ぬかるみ》を歩く足音だけが耳についた。田の水面が、暗い硝子板のように光ってみえた。
七之助はとりとめなく、色々な歌の端だけを、口笛で吹きながら歩いていた。七之助も何か考え事をしている。
「三吾の田、出が悪いな。」――七之助が蹲んで、茎をむしった。
「三吾も不幸ばかりだものよ。」
――三吾が自分のでもない泥炭地の田を、どうにか当り前にしようと、無理に、体を使った。そして二度「村役場」と「道庁」から表彰された。「農夫として、その勤強力行は範とするに足る」と云われた。岸野が道庁へ表彰方を申請したのだった。
その額椽を、天井裏のない煤けた家の中に掛けた日から、二タ月もしないうちに、三吾は寝がえりも出来ない程の神経痛にかかってしまった。痛みは寝ると夜明け迄続いた。三吾は藁束のようにカサカサに乾しからびて、動けなくなってしまった。――毎日「表彰状」だけを見ていた。
それは然し、三吾ばかりでない。――東三線の伊藤のおかみさんは、北海道の冷たい田に、あまり入り過ぎたので、三月も腰を病んで、それからは腰が浮かんで、何時でも歩くときは、ひどい跛《びっこ》のように振った。
吉本管理人の家へ、何かで集ることがある。彼等はどれもみんな巌丈な骨節をし、厚い掌をしているが、腰が不恰好にゆがんだり、前こごみであったり、――何処か不具《かたわ》だった。みんなそうだった。
市街地の端から、武田が別れてアゼ[#「アゼ」に傍点]道に入って行った。
「健ちゃ、武田の野郎やっぱり※[#「┐<△」、屋号を示す記号、259−上−18]さ出入りしてるとよ。」
口笛をやめて、すぐ七之助が云った。
「んか……」
「お前え、それから岸野がワザワザ小樽から出てきて、とッても青訓や青年団さ力瘤《ちからこぶ》ば入れてるッて知らねべ。」
「んか?」
「阿部さんや伴さんが云ってたど。――キット魂胆があるッて。」
「ん?」――健にはそれがハッキリ分らなかったが――何か分る気持がした。
「熱ッ、熱ッ、熱ッ※[#感嘆符二つ、1−8−75]」
健は足を洗いに、裏へ廻った。湿った土間の土が、足裏にペタペタした。物音で、家の中から、「健かア――?」と母親が訊いた。
「う。」――口の中で返事をしながら、裾をまくって、上り端に腰を下した。――厩《うまや》の中から、ムレ[#「ムレ」に傍点]た敷藁の匂いがきた。
由三はランプの下に腹這いになって、両脛をバタバタ動かしながら、五、六枚しかついていないボロボロの絵本を、指を嘗め嘗め頁を繰っていた。
「姉、ここば読んでけれや。」
由三は炉辺でドザ[#「ドザ」に傍点]を刺していた姉の肱をひいた。
「馬鹿ッ!」
姉はギクッとして、縫物をもったまま指を口に持って行って吸った。「馬鹿ッ! 針ば手さ刺した!」
由三は首を縮めて、姉の顔を見た。――「な、姉、この犬どうなるんだ?」
「姉なんか分らない。」
「よオ――」
「うるさい!」
「よオ――たら!――んだら、悪戯《いたずら》するど!」
健は炉辺に大きく安坐をかいて坐った。指を熊手にして、ゴシゴシ頭をかいた。
家の中は、長い間の焚火のために、天井と云わず、羽目板と云わず、ニヤニヤと黒光りに光っていた。天井に渡してある梁《はり》や丸太からは、長い煤が幾つも下っていて、それが下からの焚火の火勢や風で揺れた。――ランプは真中に一つだけ釣ってある。ランプの丸い影が天井の裸の梁木に光の輪をうつした。ランプが動く度に、その影がユラユラと揺れた。誰かがランプの側を通ると、障子のサン[#「サン」に傍点]で歪んだ黒い影が、大きく窓を横切った。ランプは始終ジイジイと音をさせて、油を吸い上げた。時々明るくなったかと思うと、吸取紙にでも吸われるように、すウと暗くなった。
「さっきな、阿部さんと伴さん来てたど。」
「ン――何んしに?」
「なア、兄《あん》ちゃ、犬ど狼どどっち強《つ》えんだ。――犬だな。」
「道路のごとでな。今年も村費が出ねんだとよ。」
「今年もか――何んのための村費道路[#「村費道路」に傍点]だんだ。馬鹿にする。又秋、米ば運ぶに大した費用《いり》だ……。」
「兄ちゃ、犬の方強えでアな!」
「んで、どうするッて?」
「暇ば見て、小作人みんな出て直すより仕方が無えべど。――村に金無えんだから。」
「犬だなア、兄ちゃ……。」
「うるさいッ!」いきなり怒鳴りつけた。――「又小作いじめだ! 弱味につけ込んでやがるんだ。放ってけば、どうしたって困るのア小作だ。んだら、キット自分の費用でやり出すだろうッて、待ってやがったんだ。――村会議員なんて、皆地主ばかりだ。勝手なことばかりするんだ。」
S村で、以前、村役場に対して小作争議を起したことがあった。北海道は町村が沢山の田畑を所有していて、それに小作を入地させていた。それで、よく村相手の争議[#「村相手の争議」に傍点]が起った。――然しS村の村会議員が全部地主であったために、後のこともあり、又やがては自分達の方への飛火をも恐れて、頑強に対峙してきたために、惨めに破れたことがあった。
「明日吉本さんの処さでも集って、相談すべアって。」
おはぐろ[#「おはぐろ」に傍点]の塗りのはげた母親の、並びの悪い歯の間に、飯が白く残っていた。
「………………。」
健は塩鱒の切はしを、せッかちにジュウ、ジュウ焼いて、真黒い麦飯にお湯をかけて、ザブザブかッこんだ。
風が出てきたらしく、ランプが軽く揺れた。後の泥壁に大きくうつッている皆の影が、その度に、あやつられるように延びたり、ちぢんだりした。
由三は焚火に両足をたてて、うつらうつらしていた。
「母《はば》、いたこ[#「いたこ」に傍点]ッて何んだ?――山利《やまり》さいたこ来てな、今日お父《ど》ばおろし[#「おろし」に傍点]て貰ったけな、お父|今《えま》死んで、火の苦しみば苦しんでるんだとよ。」
「本当か?」
「いたこ[#「いたこ」に傍点]ッて婆だべ。いたこ婆ッてんだべ。――いたこ婆さ上げるんだッて、山利で油揚ばこしらえてたど。」
「お稲荷様だべ。」
「お稲荷様ッて狐だべ。んだべ!」――由三が急に大きな声を出した。
「ん。」
「んだべ、なア!」――独り合点して、「勝ところの芳《よし》な、犬ばつれて山利さ遊びに行《え》ったら、とオても怒られたど。」
「そうよ。――勿体ない!」
「山利の母な、お父ば可哀相だって、眼ば真赤にして泣いてたど。」
「んだべ、んだべ、可哀相に!」
「な、兄ちゃ、狐……」――瞬間、炉の火がパチパチッと勢いよくハネ飛んだ。それが由三の小さいひょうたん[#「ひょうたん」に傍点]形のチンポ[#「チンポ」に傍点]へ飛んだ。
「熱ッ、熱ッ、熱ッ※[#感嘆符二つ、1−8−75]……」
由三はいきなり絵本を投げ飛ばすと、後へひっくりかえって、着物の前をバタバタとほろった。泣き声を出した。「熱ッ、熱ッ※[#感嘆符二つ、1−8−75]」
「ホラ、見れ! そったらもの向けてるから、火の神様に罰が当ったんだ。馬鹿!」
姉のお恵が、物差しで自分の背中をかきながら、――「その端《さき》なくなってしまえば、ええんだ。」と、ひやかした。
「ええッ、糞ッ! 姉の白首《ごけ》!」
ベソ[#「ベソ」に傍点]をかきながら、由三が喰ってかかった。聞いたことのない悪態口に、皆思わず由三をみた。
母親がいきなり、由三の小さい固い頭を、平手でバチバチなぐりつけた。
「兄ちゃ、由この頃どこから覚べえて来るか、こったら事ばかり云うんだど!」
お恵は背中に物差しをさしたままの恰好で、フイ[#「フイ」に傍点]に顔色をかえた。それが見る見るこわばって行った。
と、お恵は、いきなり、由三を物差しで殴りつけた。ギリギリと歯をかみながら、ものも云わずに。物差しがその度に、風を切って、鳴った。――そして、それから自分で、ワアッ! と泣き出してしまった……
明日は三時半頃から田へ出て、他の人より遅れている一番草を刈り上げてしまわなければならない。――健は、然し、眠れなかった。表を誰かペチャペチャと足音をさして、通って行った。健は起き上った。ランプの消えた暗い土間を、足先きで探りながら、台所へ下りて行った。水甕から、手しゃくで、ゴクリゴクリのどをならしながら、水を飲んだ。厩小屋から、尻毛でピシリピシリ馬が身体を打っている音が聞えた。
夜着をかぶると、間もなく、ねじ[#「ねじ」に傍点]のゆるんだ、狂った柱時計が、間を置きながら、ゆっくり七つ打った。
[#改段]
二
「S相互扶助会」発会式
正面の一段と高いところには「天皇陛下」の写真がかかっていた。
「修養倶楽部」の壁には、その外「乃木大将」「西郷大先生」「日露戦争」「血染の、ボロボロになった連隊旗」などの写真が、額になってかかっていた。演壇の左側には、払下げをうけた、古ぼけた旧式な鉄砲が三挺組合せて飾ってある。――乃木大将の話は百姓は何度きいても飽きなかった。
演壇には「S相互扶助会」発会式の順序と、その両側に少し離して、この会が主旨とする所の標語が貼り出されていた。
┌───────────┐
│ 海田山林の開発より │
│ 心田を開拓せよ! │
└───────────┘
┌───────────┐
│ 強靱なる独立心と │
│ 服従の美徳と │
│ 協同の精神へ! │
└───────────┘
会が終ってから、「一杯」出るという先触れがあったので、何時になく沢山の百姓が集っていた。「停車場のあるH町」からも来ていた。大概の小作は、市街地の旦那やH町の旦那から「一年」「二年」の借金があるので、一々挨拶して歩かなければならなかった。
小作が挨拶に行くと、米穀問屋の主人は大様にうなずいた。
「今年はどうだ?」
「ええ、まア、今のところは、ええ、お蔭様で……」
小作は腰をかがめて、一言一言に頭を下げた。――それが阿部や健たちの居る処から一々見える。健も借金があった。こんな時に、一寸挨拶して置けば、都合がよかった。それに若し今年兵隊にとられるような事になれば、病身の父や女の手ばかりの後のことでは、キット世話にならなければならない。――健はフトその側を通りかかった、という風にして挨拶した。――挨拶をしてから、然し自分で真赤になった。健は「模範小作」だったので、※[#「┐<△」、屋号を示す記号、263−下−3]の旦那も心よく挨拶を返してくれた。
会場の中は、自然に、各農場別に一かたまり、一かたまり坐らさった。お互が車座になって、話し込んでいる。――小作達は仲々こう一緒になれる機会がなかった。無骨な、日焼けした手や首筋が、たまにしか着ない他所行きの着物と不釣合に、目立った。裂け目の入った、ゴワゴワした掌に、吸殻をころがしながら、嫁のこと、稲の出揃いのこと、青豌豆のこと、小豆のこと、天気のこと、暮しのこと、旦那のこと……何んでも話し合った。
――こういう会の時は巻煙草を吸うものだとしている小作が、持ちなれない手つきで、「バット」を吸っていた。
夜遊びに、H町へ自転車で出掛けたり、始終村の娘達と噂を立てている若いものは、その仲間だけ隅の方に陣取って、人を馬鹿にしたような大声を出して、し
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