北海道庁、拓殖部編)
「……数年を経て、開墾の業成るの後は、穀物も蔬菜も豊かに育ち、生計にも余裕を生じ、草小屋は柾屋に改築せられ、庭に植えたる果樹も実を結ぶなど、其の愉快甚だ大なるものあらん。この土地こそ、子より孫と代々相伝えて、此の畑は我が先祖の開きたる所、この樹は我先祖の植えたるものなりと言いはやされ、其の功は行末永く残るべし。」(「開墾及耕作の栞」北海道庁、拓殖部編)
「……実際、我国の人口、食糧問題がかくまでも行き詰りを感じている現今、北海道、樺太の開墾は焦眉の急務であると思います。そのためには個人の利害得失などを度外視して、国家的な仕事――戦時に於ける兵士と同じ気持を持ちまして、開墾に従事し、国富を豊かにしなければならない、こう愚考するものであります。」(某氏就任の辞)
「立毛差押」「立入禁止」「土地返還請求」「過酷な小作料」――身動きも出来なように[#「出来なように」はママ]縛りつけられている内地の百姓[#「内地の百姓」に傍点]が、これ等に見向きしないでいることが出来るだろうか。――それは全くウマイ[#「ウマイ」に傍点]ところをねらっていた。
S村は開墾されてから三十年近くになっていた。ではS村の百姓はみんな五町歩乃至十町歩の「地主」になっていたか? そして、草小屋は柾屋に改築されていたか?
「誰も道で会わねばええな」
健達の一家も、その「移民案内」を読んだ。そして雪の深い北海道に渡ってきたのだった。彼等も亦《また》自分達の食料として取って置いた米さえ差押えられて、軒下に積まさっていながら、それに指一本つけることの出来ない「小作人」だった。
健は両親にともなわれて、村を出た日のことを、おぼろに覚えている。十四、五年前のことだった。――重い妹を負ぶって遊んで来ると、どこか家の中が変っていた。健は胸を帯で十字に締められて、亀の子のように首だけを苦しくのばしていた。
「母、もうええべよ。」と云った。
母は細引を手にもって、浮かない風に家の中をウロウロしていた。父は大きな安坐《あぐら》をかいたまま煙草をのんで、別な方を見ていた。――母は健を見ると、いつになくけわしい[#「けわしい」に傍点]顔をした。
「まだ外さ行《え》ってれ!」
父はだまっていた。
健はずれそうになる妹をゆすり上げ、ゆすり上げ、又外へ出た。――半分泣いていた。それから一時間程して帰ってくると、家の中はガランとして、真中に荷造りした行李と大きな風呂敷包が転がっていた。父と母が火の気のない大きく仕切った炉辺にだまって坐っていた。薄暗い、赤ちゃけた電燈の光で、父の頬がガクガクと深くけずり込まれていた。
「早く暮れてければええ……」――独り言のように云った。父だった。
暗くなってから、荷物を背負って外へ出た。峠を越える時、振りかえると、村の灯がすぐ足の下に見えた。健は半分睡り、父に引きずられながら、歩いた。暗い、深い谷底に風が渡るらしく、それが物凄く地獄のように鳴っていた。――健はそれを小さい時にきいた恐ろしいお伽噺《とぎばなし》のように、今でもハッキリ思い出せる。
「誰とも道で会わねばええな。」――父は同じことを十歩も歩かないうちに何度も繰りかえした。
五十近い父親の懐には「移民案内」が入っていた。
道庁で「その六割を開墾した時には、全土地を無償で交付する」と云っている土地は、停車場から二十里も三十里も離れていた。仮りに、其処からどんな穀物が出ようが、その間の運搬費を入れただけで、とても市場に出せる価格に引き合わなかった。――それに、この北海道の奥地は「冬」になったら、ロビンソンよりも頼りなくなる。食糧を得ることも出来ず、又一冬分を予め貯えておく余裕もなく、次の春には雪にうずめられたまま、一家餓死するものが居た。――石狩、上川、空知の地味の優良なところは、道庁が「開拓資金」の財源の名によって、殆んど只のような価格で華族や大金持に何百町歩ずつ払下げてしまっていた。「入地百姓――移民百姓」は、だから呉れるにも貰い手のない泥炭地の多い釧路、根室の方面だけに限られている。
「開墾補助費」が三百円位出るには出た。然し家族連れの移住費を差し引くと、一年の開墾にしか従事することが出来なくなる。結局「低利資金」を借りて、どうにか、こうにかやって行かなければならない。――五年も六年もかかって、ようやくそれが畑か田になった頃には、然しもう首ッたけの借金が百姓をギリギリにしばりつけていた。
何千町歩もの払下げをうけた地主は、開墾した暁にはその土地の半分を無償でくれる約束で、小作人を入地させながら、いざとなると、その約束をごまかしたり、履行しなかった。
健の父は二年で「入地」を逃げ出してしまった。「移民案内」の大それた夢が、ガタ、ガタと眼の前で壊れて行った。仕方のなくなった父親は「岸野農場」の小作に入ったのだった。
「日雇にならねえだけ、まだええべ。」
村に地主はいない
何処の村でも、例外なく、つぶれかかっている小作の掘立小屋のなかに「鶴」のようにすっきり、地主の白壁だけが際立っているものだ。そしてそこでは貧乏人と金持が、ハッキリ二つに分れている。然し、それはもう「昔」のことである。
北海道の農村には、地主は居なかった。――不在だった。文化の余沢が全然なく、肥料や馬糞の臭気がし、腰が曲って薄汚い百姓ばかりいる、そんな処に、ワザワザ居る必要がなかった。そんな気のきかない、昔型の地主は一人もいなかった。――その代り、地主は「農場管理人[#「農場管理人」に傍点]」をその村に置いた。だから、彼は東京や、小樽、札幌にいて、ただ「上《あが》り」の計算だけしていれば、それでよかった。――S村もそんな村だった。
岸野農場の入口に、たった一軒の板屋の、トタンを張った家が吉本管理人の家だった。吉本は首からかぶるジャケツに背広をひっかけ、何時でも乗馬ズボンをはいて歩いていた。
「この村では、俺《わし》を地主だと思ってもらわにゃならん。」
初めて来たとき、小作を集めてそう云った。
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S村――田の所有分布。
二百町歩――S村所有田
百五十町歩――大学所有田・「学田《がくでん》」
百二十町歩――吉岡(旭川)
五百町歩――岸野(小樽)
二百町歩――馬場(函館)
二百十町歩――片山子爵(東京)
三百町歩――高橋是善(東京)
外ニ、自作農五戸、百五十町歩。
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「巡査」と「※[#「┐<△」、屋号を示す記号、256−上−12]の旦那」
市街地には、S村青年団、S村処女会があって、小学校隣接地に「修養倶楽部」を設け、そこで色々な会合や芝居をやる。――会長は校長。副会長には「在郷軍人分会長」をやっている※[#「┐<△」、屋号を示す記号、256−上−16]荒物屋の主人。巡査。それに岸野農場主が名誉相談役となっていた。――健達の通っている「青年訓練所」も、その「修養倶楽部」で毎晩七時からひらかれていた。
巡査は一日置きに自転車で、「停車場のあるH町」に行ってきた。――おとなしい、小作の人達にも評判のいい若い巡査だった。途中、よく自転車を道端に置き捨てにして、剣をさげたまま、小便をしていた。それが田に働いている小作達に見えた。暇になると、小作の家へやってきて話して行った。――然し一度岸野の小作達が小作料のことで、町長へ嘆願に出掛けたことがあってから、小作人達のところへは、プッつり話しに来ないようになってしまった。そのことでは随分噂が立った。「岸野から金でも貰ったべよ。」と云った。
以前、殊に親しくしていた健の母親はうらんだ。
「随分現金だな。」――然し石田さんに限って、そんな「噂」はある筈がない、と云っていた。
石田巡査はそれから※[#「┐<△」、屋号を示す記号、256−下−16]や吉本管理人と村道を、肩をならべて歩くのが眼につき出した。
――※[#「┐<△」、屋号を示す記号、256−下−19]の荒物屋からは、どんな小作も「店借《たなが》り」をしている。
一年のうち、きまった時しか金の入らない百姓は、どうしても掛買しか出来ない。それに支払は年二回位なので、そこをツケ[#「ツケ」に傍点]目にされた。現金なら五十銭に売り、しかもそれで充分に儲けているものを「掛」のときには五十七、八銭にする。どの品物もそうする。小作人はそれが分っていて、どうにも出来ず、結局そこから買わなければならなかった。――※[#「┐<△」、屋号を示す記号、257−上−6]は三年もしないうちに、メキメキと「肥えて」行った。
蜘蛛の巣を思わせる様に、どの百姓も皆※[#「┐<△」、屋号を示す記号、257−上−8]の手先にしっかりと結びつけられ、手繰り寄せられている。
村に「信用購買販売組合」が出来てから、※[#「┐<△」、屋号を示す記号、257−上−10]との間に問題が起った。――今迄とは比べものにならない程安く品物が買えるので、小作人は「組合」の方へドシドシ移って行った。と、※[#「┐<△」、屋号を示す記号、257−上−13]はだまってはいない。――若し「組合」の方へ鞍替するような「恩知らず」がいたら、前の借金がものを云うぞ、と云い出した。人のいい小作達は、そう云われて、今迄あんなに気儘に借金をさせて貰ったのに、それは本当に忘恩なことだ、と思った。
※[#「┐<△」、屋号を示す記号、257−上−18]は小作人が金が払えないと、米や雑穀でもいいと云った。――百姓が町へ行って、問屋に売る値段で、それを引きとってくれた。それで※[#「┐<△」、屋号を示す記号、257−上−20]は貸金の回収をうけると同時に、それを又売り[#「又売り」に傍点]して、そこから利ざやを――つまり二重に儲けていた。
在郷軍人分会長、衛生部長、学務何々……と、肩書をもっている※[#「┐<△」、屋号を示す記号、257−下−3]の旦那のようになりたい、それが小作人の「夢」になっている。――小作人達は道で、※[#「┐<△」、屋号を示す記号、257−下−4]の旦那に会うと、村長や校長に会った時より、道をよけて、丁寧に挨拶した。「青年訓練所」では、※[#「┐<△」、屋号を示す記号、257−下−6]の旦那が「修養講話」をやった。
夜道
健達は、士官の訓練が終って、※[#「┐<△」、屋号を示す記号、257−下−8]の「修養講話」になると、疲れから居睡りをし出した。「青年の任務」「思想善導」「農民の誇」……何時《いつ》もチットモ変らないその講話は、もう誰も聞いているものがなかった。
外へ出ると、生寝《なまね》の身体にゾクッ[#「ゾクッ」に傍点]と寒さが来た。霧雨は上っていたが、道を歩くと、ジュクジュクと澱粉靴がうずまった。空は暗くて見えなかった。然し頭を抑えられているように低かった。何かの拍子に、雨に濡れた叢がチラチラッと光った。
「もう一番[#「一番」に傍点]終ったか?」――後から七之助が言葉をかけた。
健はたまらなく眠かった。「ええや、まだよ、人手がなくなってな。」
誰かがワザと大きくあくび[#「あくび」に傍点]をした。
「健ちゃは兵隊どうだべな。」
「ん、行かねかも知らねな。……んでも、万一な。」
「その身体だら行かねべ。青訓[#「青訓」に傍点]さなんて来なくたってええよ。」
すると今迄黙っていた武田が口を入れた。――「徴兵の期間ば短くするために青訓さ行《え》ぐんだら、大間違いだど!」
初まった、と思うと、七之助はおかしかった。
「あれはな、兵隊さ行ぐものばかりが色々な訓練を受けて、んでないものは安閑としてるべ、それじゃ駄目だッてんで、あれば作ったんだ。兵隊でないものでも、一つの団体規律の訓練をうける必要はあるんだからな。」
「所で、現時の農村青年は軽チョウ浮ハクにして、か!……」
七之助が小便しながら、ひやかした。叢の葉に、今迄堪えていたような小便が、勢よくバジャバジャと当る音がした。
「ん。」――武田が真
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