けたものが七、八人いた。――父親が探がした時、知らずに打ち当ったと云うので、下がっているキヌの身体が眼につかない程ゆるく揺れていた。提灯の火だけでそれを見ていると、寒気がザアーッと身体を走った。
「ハ、ようやく村の恥さらしものに片がつきました……。」
 父親が血の気のない顔で云って歩いていた。
 健には、キヌの死んだ事が何故か、キヌという一人の人間だけのこと、それだけのことでなく思われた。――もッと別なことが、色々その中にある気がした。
 S村と小樽、これをキヌが考えさせる!
[#改段]

    九


     「なア、お内儀さん達よ――」

 岸野から返事が来た。
 伴のところへ、吉本から人が呼びに来た。――それと、健がキヌの葬式に出掛けて行く途中会った。
「聞かなくても分ってるんだ。」と伴が云った。
「岸野のこッた。――帰りに寄る。」
 勝の家の前で、父の一人一人ちがった兄弟が田の引水をせきとめて、鮒をすくっていた。身体をすっかり泥水に濡らして、臍のあたりについている泥が白く乾いていた。
「愛子オ。」――男の子が呼んだ。
「何アに。」
「愛子あ――とて、あれきあんだれき、ありやのあり糞!」
 女の子も負けてはいない。「源一げんとて、げりき、けんだれき、げりやのげり糞! やあ、げり[#「げり」に傍点]糞、げり[#「げり」に傍点]糞!」
 愈※[#二の字点、1−2−22]《いよいよ》だ! 健は恐ろしいような、心臓のあたりをくすぐられるような気持になっていた。
 ――吉本管理人は伴の顔をみると、
「見ろ!」と云って、眼の前に手紙を投げて寄こした。「あんなことを云ってやったから、見れ、かえって片意地にさせてしまった。――んだから、馬鹿だって云うんだ。」
 狸奴! 俺達の云った通りのことを、貴様が正直に書いてやったと誰が思ってる! 手前が自分の立場が可愛くて、小作人が飛んでもないことやらかしてるッて、有る事、無い事、嘘八百並べてやったんでないか。順序が順序だから、手前のような奴を中にはさんだんだ!――
 伴は手紙を懐に入れると、吉本に挨拶もしないで外へ出た。
「騒いだりしたら損だど。――分ってるべ、ん?」
 出かけに吉本が云った。――返事もしない。
 こうなれア立場としては吉本は、可哀相なほどオロオロだ。様《ざま》ア見ろッ!
 伴の家には、五、六人集っていた。――健も居た。健は伴に会ってから、葬式どころでないと思って、顔だけ出すと、直ぐこっちへ廻ってきた。――自分も変ったな、と思った。キヌだって分ってくれるさ、と思った。
 そこへ伴が帰ってきた。皆伴を見た。
 瞬間、鋭い緊張がグイと皆を抑えた。
「ウハハハハハ。」
 戸口に立ったまま、何んの前触れもなく、伴は大声で笑った。そして懐から手紙を出すと、「ここまでお出で」をするように振ってみせた。
「駄目ッ!」ぶッつり切った。
 皆はつられたように、「駄目か!」「やッぱり!」「んか。」「駄目か!」口々に云った。――肩から力がガックリ抜けた。
「で、こんなものモウどうでもいいこった。――第二だ。」
 伴は皆の真中に大きく安坐をかいた。
 阿部は眼鏡を出してきて、ゆっくり手紙を読んだ。
「第二だ、これは俺達のうちから代表を選んで、岸野に直《じ》き直き会って、詳しい話をするために小樽へ出掛けることだ。――喧嘩はまだ早い。後で大丈夫だ。」
「したども、伴さん一番先きに喧嘩してえんだな。」――年輩の小作がひやかした。
 両手で頭を大げさに抑えて、伴がウハハハハハと笑った。
「そうした方順序だし、ええ。」
「ええべ。」
「んでも、伴さんみたいに喧嘩早い人は代表には駄目だネ。」
「これでも駈け引になれば、駈け引はうまいんだよ。」――伴がてれた。
 何故そんな無駄な廻り道が必要なんだ。健は自分だけではそう思った。――分り切ったことでないか。
「喧嘩ッてなれば、矢張り乗るか、そるかだ。――やれることだけは、やって置かねば駄目だ。」――阿部までそう云った。
 心配していた女房達が、懐へ子供を抱き込んで乳をふくませたり、背中にくくりつけたまま、お互がああだ、こうだ、と話しながら、二三人ずつ、二三人ずつ集ってきた。――子供が喚いて、背中で母親の尻を蹴る。――入口がやかましくなった。
 こう集ってみると、小作の女達は「汚な」かった。畑から抜いてきた牛蒡《ごぼう》のように、黒くて、土臭かった。――然し、そのどの顔もたった一つのこと、「食えるか」「食えないか」で、引きつッていた。
「な、御内儀《おかみ》さん達よ、」
 伴が一言ずつ顎をしゃくりしゃくり、何時ももの[#「もの」に傍点]を云うときの癖で、眼をつぶって――「聞いて貰おう。――この一年間、寝る眼も寝ず働いて、そのお蔭で、有難いお蔭で、今食うや食わずになり、――どうか生かしてだけは置いてくれッて頼んだ事だ。それをどうだ! この手紙を見てくれ。――馬鹿野郎だとか、気狂いだとか、監獄へブチ込んでやるぞ、とか――な、地主と小作は親と子だって云う。真赤な嘘だ。真赤な嘘でないか。これで親も子もあるもんか。」
「まア。」
「まア、まア!」
 女達はそれだけしか云えない。
 子供が急に大きな声を張りあげて泣き出した。いきなり平手で、馬鈴薯のような子供の頭をパシッパシッ殴った。「黙ッてれ、この餓鬼ッ!」――母親がムキになって怒っている。
 佐々爺と武田が「返事」のことで、ひょッこり顔を出した。佐々爺は東京新聞を振り上げながら、「どうしたんだ? どうしたんだ? ええ? どうした?」
 と、カスカスな声を絞り上げた。

     「俺の命でもとる気か?」

 交渉委員が小樽へ出発してから三日経って、ハガキが来た。阿部だった。

 ――誠意をもって会ってはくれない。朝七時に、門から玄関まで山があったり、池があったりする立派な邸宅を訪ねると、三十分も待たしてから、「店」へ行ったと云う。その店までは歩いて行って四五十分もかかる。そこで又二十分も待たして置いてから、ヌケヌケと、工場の方です、と云う。教えられた道を迷って、曲がりくねって、行き過ぎたりして、あげくの果てに工場が見付かる。見付かったって、何処からどう入って行って、どう云えば会えるか分らない。何人にも、何人にも頼んで、その度に百姓は冷汗を流す。そして云うことは同じ。ホテルに行ってる!
 ホテルへ行けば商業会議所。泣きたかった。――晩の十一時過ぎにようやく家で会ってくれた。音もしない自動車に乗って、酔って帰ってきた。
「俺の命でもとる気か、一日中|尾行《あと》をつけて!」と、最初から怒鳴りつけられた。
 佐々爺はカラ[#「カラ」に傍点]駄目だ。――旦那様の云うことはお尤もで、へえ、ドン百姓ッてものは我儘で、無理ばかり云って、とか、まるでワケ[#「ワケ」に傍点]が分らない。
「小樽でグズグズしてると、警察へ突き出すぞ!」終いにそう云った。
 次の日はそれでも三時間程会った。
「こんな事はお前等ばかりでなくて、お前等の後をつッついている不穏分子がいるから、きいてやるワケには行かない。」
 不穏分子というのは「農民組合」のことだそうだ。
 とうとう駄目だ。話にならない。駄目と分ったら、直ぐ帰る。

 健は始めて伴から頼まれて、小作人の家全部を廻って歩いた。――今度のことはモウ成行きがきまっている。そうなったら一人でもハグれないようにするためだった。――一廻り、廻って来ると、健は他愛なくなる程疲労した。
「ん、ん、ん!」
 ときいてくれる隣りでは、何しに来やがった、という顔をした。
「困るには困るども、穏当でねえべもしな。――後がオッかなくてよ。」
 そんなことも云う。
「岸野さんだら、一度ウンとやって置く必要あるんしな。」
 そして何処ででも、「へえ、健ちゃが、健ちゃがこんな事するようになったのか?」と、不思議がられた。
 その度に健は耳まで赤くして、ドギマギした。
 然し、たったそれだけの事をしただけで、健は何か大きな自信と云ってもいいものをつかんだように思われた。

     「納屋にあるのか?」

 健が裏で、晩に食う唐黍をとっていた時だった。
「健ッ! 健ッ※[#感嘆符二つ、1−8−75]」――母親の叫び声が家の中でした。
 その声にただ事でない鋭さを感じて、健はグイと襟首をつかまれたと思った。
 家の中にかけ込んだ。かけ込んで――見た。
 吉本管理人! 剣! 巡査だ! 役場の人! 鞄! 一瞬一瞬のひらめきのように、いきなり健の眼をくらました。
「気の毒だが、小樽からの命令で、小作米を押えるから。」
 吉本は戸口に立ったきりの健に、憎いほど落着いた低い声で、ゆっくり云った。
 ――健はだまって裏へまわった。皆はゾロゾロついてきた。母親はオロオロして、吉本や特に親しかった巡査の後から同じことを何度も云った。
「お母さん、どうも仕方がないんだ。」
 巡査はうるさそうに云った。
[#改段]

    十


     「小作調停裁判」

 又順序をふんだ!
 こうなると、健がジリジリした。――「小作調停裁判」を申請するというのだ。
「分りきった無駄足を何故使うんだ。」健はハッキリそう思った。――何んと云ったって、阿部も伴もやっぱり年寄りだ、とさえ思った。
 然し、ただ、今迄とはちがって、兎に角「表へ出る。」――所謂《いわゆる》社会的な地位のある人は、案外表へ出ることを嫌う。そこを衝いてみる必要がある――阿部も伴もその事を考えていた。
 差押えを受けてから、小作人もちがってきた。「モウ親も子もあるもんか。」――一番おとなしい小作さえ口に出して云った。
――小作は毎日毎日の飯米にさえ困った。納屋には米俵がつまさっている。何十俵も積まさっている。何十俵という米俵が積まさっていて、そして飯が食えなかった。
「少しでも手をつけると罪人だぞ。」
 巡査が時々廻ってきた。まるで岸野から言伝《ことづか》って来たようだった。――小作人は「罪人」と云われると、背中がゾッとした。
 H町からの帰り、母親と由三が薄暗くなったのを幸いに、所々の他人《ひと》の畑から芋や唐黍を盗んできた。――前掛けの端を離すと、芋、唐黍、大根が一度に板の間にゴトンゴトンと落ちた。
「兄ちゃさも、恵にも云うんでねえど!」
 家のなかに上ると、母親はさすがにグッたりした。――とうとう泥棒をしてしまった、と思った。
「……んでも泥棒させるのは、岸野さんだ。……ええワ、ええワ!――何アに……。」
 横坐りになると、そのまま何時迄もボンヤリした。
「母、俺ら学校の帰り何時でも取ってくるか?――由何んぼでも、見付からないように盗《と》れるワ。」
「馬鹿!」――母親はいきなり叱りつけた。
 食えなくなった小作達は、だまっていても、伴のところへ代る代る集ってきた。小作調停のことは、それで思ったより早く纏った。
 武田と佐々爺は「何んとか外にないか」「何んとかなア……」と云っていた。
 伴外一名が代表になって村長へ「口頭」で、小作調停裁判を申請した。村長は「遅滞なく」そのことを旭川地方裁判所へ提出した。それが「受理」されると同時に、小作米の差押えが解除された。――小作人はどうかした拍子に「かなしばり」がとけた時のような身軽さを感じた。――「やれ、やれ。」
 小作米は直ぐH町の「農業倉庫」に預け入りして、「倉荷証券」にした。それは何時でも現金にすることが出来るようになった。

     「小作官」

 道庁から「小作官」がやってきた。黒の折鞄を抱えた左肩を少し上げて、それだけを振って歩いた。伴の家へ上ると、茣蓙敷のホコリとズボンの膝を気にした。窮屈に坐った。話をききながら、「朝日」を吸った。――何本も何本も続けて吸う、しばらくもしないうちに、白墨の杭のように、炉の灰の中に殻が突きささった。
 阿部が伴に代って、初めから順序をつけて詳しく話した。
「ム――、それア、岸野さんにチィ――ト無理なところがあるね。」
「何がチィ――トだい!」
 帰ってから、伴が小作官の真似をして、皆を笑わ
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