「え、今のところは……矢張り秋になってみないと。」
 ――お互いに声が低くなっていた。
「気をつけて貰わないとな。」
「それア、もう!」
「ん。」
 岸野は正直に云って、時々後から不意に田の中へ突きのめされはしないか、という脅迫めいた恐怖を感じていた。何かの拍子に、何度も何度もギョッとした。一町も行かないうちに、汗をびっしょりかいていた。然し表面だけの威厳は持っていなければならなかった。
「この前のように、嘆願書をブッつける事はないだろうな。」
「その点こそ、今度は大丈夫ぬかりませんでした。」
「ん。」それで安心した。――然し後の方は口に出しては云わなかった。そして鷹揚にうなずいて見せた。持っていた穂を田の中に投げると、小さい波紋の輪が稲の茎に切られながら、重なり合って広がって行った。
「ね、お百姓さんって、何時でもこの水の中に入って働くのねえ!」
「そうで御座います、お嬢さん。」
 二つ三つ田を越したところで、丁度同じ年位の娘が頬かぶりの上に笠をかぶり、「もんぺい[#「もんぺい」に傍点]」をはいて、膝ッ切り埋って働いているのが見えた。顔に泥がハジけると、そのまま袖でぬぐっている。
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