事が、「小作人よ、欺されるな。」という標題のビラにされていた。
「……あんなにしてやったのに、ビラば配るなんて恩知らずだッて、怒ってるワ。」
「誰だ?」
「……………」
「お前もだべ?――んだべ。」
「……誰でもさ。」
「こけッ!」
 二人とも、かたくなに黙り込んでしまった。
「な、節ちゃ。」――調子が変っていた。「節ちゃは、あれだろう。俺、模範青年になってる方がええんだべ。」
 健は節を「お前」と云ったり、「節ちゃ」と云ったりする。「節ちゃ」という時は、何か真面目なことを心に持っている時に限っていた。――節はそれを知っている。
「健ちゃだもの、滅多なことしねッて、わし[#「わし」に傍点]思ってるわ。んでも淋しいの……。皆が皆まで健ちゃば見損った、見損ったッて云うかと思えば……。」
「節ちゃ、そう云っても、岸野の農場で阿部さんや伴さんさ誰だって指一本差さねえんでねえか。」
「それアんだわ。良え人ばかりだもの……。んでも阿部さんば煙ぶたがってるわ。」
「小作で無《ね》え人はな。――俺達第一小作だからな。」
「変ったのね……。」
「模範青年の口から、そったら事聞くと思わないッてか?」
 健はかえって、それで自分を嘲《あざけ》った。――「模範青年、模範青年!」
 節は不意に顔を上げた。
 焚火が消えると、四囲が暗く、静かになった。時々川の面で、ポチャッ――ポチャッ、と水音が立った。魚が飛び上るらしかった。
「今に分るさ……。遅くなった、帰るか、ん?」
 健は腰をあげて、前をほろった。しめッぽい草の匂いが、鼻に来た。節はしばらくじッとしたままでいた。――「ん?」と、もう一度うながすと、ようやく腰を起した。
「帰るウ?」
 健は雑草を分けて、歩き出した。
 向うを、「ここはみ国の何百里……」の歌を口笛で吹きながら、誰か歩いて行った。
「口笛、武田でねえかな。――曲るど。見つけられたら、良《よ》え模範青年だからな。」そして大きな声で笑った。
「もう、模範青年、模範青年ッてのやめてよ。」節は悲しい声を出した。
 ――節は悲しかった。健と会うときは、何時でも何かの期待でウキウキする。然し自分でもハッキリ分らなかったが、何んだか物足りない気持を残して、何時でも別れていた。健の何処かに冷たさがあると思った。それが悲しかった。
 村に入る角の「藪」を曲がると、その向い側の暗いところから、女が誰かに、くすぐられてでもいるらしく、息をつめてクックッと笑いこけているのが聞えた。が、二人の足音で、それがピタリとやんだ。草を掻き分ける音が続いた。
「な、節ちゃ。――此頃こんなに皆フザけてるんに、警察でなんで黙ってるか知ってるか。」
 外の人は何故こう面白そうにして、夜会うんだろう。――それを今見せつけられて、節はこみ上ってくる感情を覚えた。
「地主の連中があまり厳しくしないでけれッて云ってあるんだとよ。」
 無感動な男《ひと》だ、何を考えてるんだろう!――節は聞いていなかった。
「活動もあるわけでなし、そば[#「そば」に傍点]屋もなしよ、遊場もねえべ、んだから若い者が可哀相だんだとよ、どうだ?」――そう云って、自分でムフフフフフと笑った。「有難い地主さんだな……」
「ところがな、阿部さんが云うんだ。――阿部さんッてば、お前すぐ嫌な顔すべ。――阿部さんが小樽の工場にいた時なんて、工場の隅ッこさ落ちてる糸屑一本持って外さ出ても、首になったりしたもんだどもな、女工さんの腹ば手当り次第に大《で》ッかくして歩いても、そんだら黙ってるんだとよ。」
「まさか?……」
「だまって聞け。――それがな、こういう理由《わけ》だんだと。そんなのを禁ずればな、お互い気が荒くなっ……」みんな云わせないうちに、節がプッと吹き出してしまった。
「この糞ッたれ!」
 健はそのまま口をつむんだ。然しすぐ又口を開いた。′
「な、仕事が苦しいべ、んだから何んかすれば直ぐ労働組合にひッかかって行くんだ。そうさせないためにするんだ――。」
「まアまア考えたもんだね。――んだら、わざわざ管理人さん達の肝入で出来た処女会[#「処女会」に傍点]はどうなるの?」
 健は後向きになって、急に大きな声を出した。
「そうさ、裏が裏だから、表だけは立派にして置ぐのさ。やれ節婦だ、孝子だッておだてあげて、――抑えて置くのよ。そこア、うまいもんよ。」
「分らないわ。」
 停車場のあるH町から通っている幌のガクガクした古自動車が、青白いヘッドライトを触角のように長く振りながら、一直線に村道から市街地に入ってきた。入口から、お客を呼ぶための警笛を続け様にならした。それが静かな市街地全体に響き渡った。――※[#「┐<△」、屋号を示す記号、274−上−16]の雑貨店から、ガラガラと戸を開けて周章てて誰か表へ飛び出した。
 二人は
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