た。
 心持ちこっちへ顔を向けて――その顔が笑っている。お恵は耳まで真赤になった。そして手を挙げた。が、胸のところしかあがらない……。
 ラッパの音が遠くなった。
 そして行ってしまった。
 皆は兵隊の残して行った革の匂いと埃の中に、何時迄も立ちどまって見送っていた。――
[#改段]

    六


     「あれは口の二つあるダニ[#「ダニ」に傍点]だよ」

「お茶ば飲みに来ないか。旭川の人も来るし、二三人寄るべから。」
 前から伴や阿部のところに、四五人集ることのあるのは知っていた。健は始めてだった。
 仕事が終ってから、藁屑のついた着物を別なのに着かえて出掛けた。由三は独り言を云いながら、壁へ手で犬や狐の恰好の影をうつして遊んでいた。
「兄ちゃ何処さ行ぐ?――由も行ぐ。」
 出口までついて来て、駄々をこねた。
 もう秋めいている。夜空に星が水ッぽい匂いをさせて一杯にきらめいていた。実りの薄い稲の軽いサラサラした音がしていた。
 政府の「米買上げ」と不作の見越しで、米の値は「鰻上り」に上ってきている。然しその余沢の一ッこぼれさえ百姓にはこぼれて来ない。――今時米を手持ちしているのは誰だろう。百姓でだけはない[#「百姓でだけはない」に傍点]。みんな一番安い十一月、十二月に俵の底をたたいてしまっている。――どんな百姓でも「米買上げ」が自分達には「クソ」にもならないことだけは知っていた。
「んでも、政府さんのする事だもの、やっぱし深い考えあるんだべよ。」と云っていた。
 健がムキになって「買上げ」をコキ下したとき、佐々爺が手に持っていた新聞[#「新聞」は底本では「新間」]をたたいて、
「え、え、え、東京新聞も碌ッた見もしねえで、何分るッて! お前えみだいた奴の、小さいドン百姓の頭で何が分るッてか。お前えより千倍も偉い、学問のある東京の人が考えて、考えて決めた事だんだ。――東京新聞ば読め! 東京新聞ば読んでからもの云うんだ。ええか!」――顔をクシャクシャにさせた。
 今年はこの後若し雨にでも降られれば「事」だった。
 阿部の家の前の暗がりで、不意に犬が吠え立った。家の中から誰か犬の名を呼んでいる。小さい窓を大きく影が横切って、すぐ入口の戸が開いた。阿部が顔を出した。
 旭川の人はまだ来ていなかった。
 八人程集っていたが、若いものは健一人だけで、皆家をもっている農場
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