母たち
小林多喜二
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)故里《くに》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)窓|硝子《ガラス》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#感嘆符疑問符、1−8−78]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)パチ/\させながら
*:初出紙での伏せ字
(例)*****を**するものである。
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弟が面会に行くとき、今度の事件のことをお前に知らせるようにと云ってやった。
差入のことや家のことや色々なことを云った後で、弟は片方の眼だけを何べんもパチ/\させながら、「故里《くに》の方はとても吹雪《ふぶ》いているんだって。」と云った。するとお前は、「そうだろうな、十二月だもの。――こっちの冬はそれに比べると、故里の春先きのようなものだ。」と云ったそうだね。弟は困《こま》って、又何べんも片方の眼だけをパチ/\させて、「故里の方はとても嵐だって!」と繰りかえしたところが、お前が編笠《あみがさ》をいじりながら、突然奇妙な顔をして、「お前片方の眼どうした? 神経痛にでもなったのか?」と云ったので、弟は吹き出すわけにも行かず、そうだとも云えず、とても困ったそうだ。――その手紙を弟から貰《もら》って、こっちでは皆涙を出して笑ったの。
ところが、本当に今年のこっちの冬というのは十何年振りかの厳寒で、金物の表にはキラ/\と霜が結晶して、手袋をはかないでつかむ[#「つかむ」に傍点]と、指の皮をむいてしまうし、朝起きてみると蒲団《ふとん》の息のかゝったところ一面が真白にガバ/\に凍えている、夜中に静かになると、突然ビリン、ビリンともののわれる音がする、家をすっかり閉め切って、ストーヴをドシ/\燃しても、暑いのはストーヴに向いている身体の前の方だけで、後半方は冷え冷えとするのだ。窓|硝子《ガラス》は部厚に花模様が結晶して、外は少しも見えなくなった。外を歩くと、雪道が硝子の面よりも堅く平らに凍えて、ギュン/\と何かものでもこわれるような音をたてる……。所謂《いわゆる》「十二月一日事件」の夜明頃などは、空気までそのまゝの形で凍えていたような「しばれ[#「しばれ」に傍点]」だったよ。
あの「ガラ/\」の山崎のお母さんでさえ、引張られて行く自分の息子よりも、こんな日の朝まだ夜も明けないうちに、職務とは云え、(それも「敵方の[#「敵方の」に傍点]」職務だが)やって来て、家宅捜索をするのに、すぐ指先がかじかん[#「かじかん」に傍点]で、一寸やっては顎《あご》の下に入れて暖めているのを見るに見兼ねて、「え糞《くそ》ッ!」という気になり、ストーヴをたきつけてやったと云っている。
監獄《なか》にいるお前に「お守り」を送ることをするようなお前の母は、冬がくると(この寒い冬なのに)家中のものに、二枚の蒲団を一枚にさせ、厚い蒲団を薄い蒲団にさせた。なか[#「なか」に傍点]にいるお前のことを考えてのことなのだ。それでも、母が安心していることは、こっちの冬に二十何年も慣れたお前は、キットそこなら呑気《のんき》にいれるだろうと考えているからだ。前の手紙を見ると、お前はそこで毎朝六時に「冷水摩擦」をやっていると書いていたが、こっちでそんな時間に、そんなことをしたら、そのまゝ冷蔵庫に入った鮭《さけ》のようにコチコチになってしまうよ。
家《うち》へ来たのは朝の五時。やっぱり[#「やっぱり」に傍点]妹が一番先きに眼をさましたの。そして母を揺り起した。母が眼をさますと、何だかと訊《き》いたので、「ケイサツ」と云うと、母はしばらく黙っていたが、「兄が東京で入っているんだも、モウ何ンも用事ねえでないか?」と云った。妹はそれにどう返事をしていゝか分らなかった。
母はブツ/\云いながら、それでもお前が「四・一六」に踏み込まれたときとはちがって、平気で表の戸を開けに行った。それは女ばかりの家で、母にはお前のことだけのぞけば、あとはちっとも心配することが無いからである。戸が開くと、一番先きに顔を出したスパイが、妹の名を云って、いるかときいた。そのスパイは前から顔なじみ[#「なじみ」に傍点]だった。母は「いるよ。」と、当り前で云ってから、「あれ[#「あれ」に傍点]がどうしたのかね?」と問うた。スパイはそれには何も云わずに、「いるんだね」と念を押して、上がり込んできた。
明け方の寒さで、どの特高の外套《がいとう》も粉を吹いたように真白になり、ガバ/\と凍えた靴をぬぐのに、皆はすっかり手間どった。――お前の妹は起き上がると、落付いて身仕度をした。何時もズロースなんかはいた[#「はいた」に傍点]ことがないのに、押入れの奥まったところから、それも二枚取り出してきて、キチンと重ねてはいた。それから財布のなかを調べて懐《ふところ》に入れ、チリ紙とタオルを枕もとに置いた。そういう動作をしているお前の妹の顔は、お前が笑うような形容詞を使うことになるが、紙のように蒼白《そうはく》だった。しかし、それは本当にしっかりした、もの確かな動作だったよ。特高が入ってきて、妹を見ると、「よウ!」と云った。妹は唇のホンの隅だけを動かして、冷い表情をかえしたきりだった。妹と特高のその様子を見た母の顔は急に変った。そして、口のあたりをモグ/\と動かした。が、何故か周章《あわ》てゝ両手で、自分の口を抑えた。妹はその母をチラッと見ると、横を向いた。――その朝、この年とった母は何んにも云わなかった。たゞ、「寒くないか?」と云ったことゝ、愈々《いよいよ》連れて行かれるときに、妹の顔を見て、「あ――あ、お前もか!」と云ったきりだった。
母はこの前の、お前の時のように、今度は泣かなかったよ。だが、母はおそろしく無口になってしまった。誰か何かをしゃべっても、たゞ相手の顔を見るだけで、口をきかないの。そして、そうでなくても小さい母は、モット小さくなってしまった。
山崎の「ガラ/\のお母さん」のところへ行った[#「行った」は底本では「行たっ」]のも、やはり同じ時間だったそうである。このガラガラのお母さんは、前からその朝来ることが、分っていたかのように、「それ、秀夫や、来たど! 起きるんだ。」と云って、息子を揺り起し、秀夫さんが入口でスパイと何か云っている間に、ガリ[#「ガリ」に傍点]板を手早く便所の中に投げ捨てゝしまった。そして「サア/\、何処ッからでも見てけさい[#「けさい」に傍点]!」と云って、特高を案内したそうである。お前には、「サア/\何処《どこ》からでも見てけさい!」と云ったあのお母さんを直ぐ思い出すことが出来るね。スパイの連中が帰りがけにストーヴのお礼を云ったら、「そッたらお礼ききたくもない。それよりお前さんらサッサとこの商売をやめねば、後で碌《ろく》でもないことになるよ。」と云ったので、秀夫さんまでそれには笑ってしまったそうだ。――ところが、秀夫さんの方が何かと云うのに舌が口にねばり、乾いたせき[#「せき」に傍点]払いをして、何時《いつ》もとちがった声を出し、下り口に立っても、お母さんが靴を出してやらないと妙にウロ/\したり、帽子をかぶるのを忘れて、あわてたそうよ。
夜が明けてから、お前が可愛がって運動に入れてやった「中島鉄工所」の上田のところへ、母が出掛けて行ったの。若しも上田の進ちゃんまでやら[#「やら」に傍点]れたとすれば、事件としても只事でない事が分るし、又|若《も》しまだやっ[#「やっ」に傍点]て来ていないとすれば、始末しなければならない事もあるだろうし、直《す》ぐ知らせなければならない人にも、知らせることが出来ると思ったからである。争われないものだ、お前の母は今ではこういうことに気付くのだ。――母がたずねて行くと、薄暗い家の奥の方で、進ちゃんのお母さんが髪をボウ/\とさせ、眼をギラ/\と光らせて坐っていた。母が入ってきたのを見ると、いきなり其処《そこ》へ棒立になって、「この野郎[#「野郎」に傍点]ッ! 一歩でも入ってみやがれ、たゝッき殺すぞ!」と大声で叫んだそうだ。母は何が何んだか、わけが分らず、「あのね…………」と云い出すと、「畜生ッ! 入るか※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」と云って、そこにあったストーヴを掻《か》き廻《まわ》す鉄のデレッキを振りあげた。母は真青になって帰ってきた。
この冬は本当に寒かったの。留置場でもストーヴの側の監房は少しはよかったが、そうでない処《ところ》は坐ってその上に毛布をかけていても、膝がシン/\と冷たくなる。朝眼をさますと、皆の寝ている起伏の上に雪が一杯ふりかゝっているので吃驚《びっくり》するが、それは雪が吹きこんできたのではなくて、(それもあったが)夜中に空気中に残っているありとあらゆる湿気がみんな霜に還元されるのである。なか[#「なか」に傍点]のものは次々と凍傷を起して行った。
お前の母ばかりでなしに、沢山《たくさん》の母たちが毎日のように警察に出掛けて行ったが、母はそこでよく子供を負《お》んぶした労働者風のおかみ[#「おかみ」に傍点]さんと会った。最初はどこの係りにやってくるのか分らなかったが、そのうち特高室で待っているところへ、そのおかみ[#「おかみ」に傍点]さんが入ってきた。それで同じ事件の人だということが分った。――帰りに一緒になって、母が色々なことを話そうと思い、お前や妹の母だという事を知らせた。すると、急に眼をみはって、マジ/\としながら、「んじゃ、お前さんが伊藤のお母さんかね。」と、荒ッぽい浜言葉で云って、「んか、んか」と独《ひと》りうなずきをした。それはまるで人を見下げた、傲慢《ごうまん》な調子だった。そして帰りに一緒になることにしていたのに、そのおかみ[#「おかみ」に傍点]さんはさッさと自分だけ先きに帰って行ってしまった。背中の子供は頭が大きくて、首が細く、歩くたびにガク/\と頭がどっちにも転《ころ》んだ。
上田の進ちゃんのお母アは、とう/\気が狂ったとみんなが云った。お前がこっちにいた時知っているだろう、「役所バカ[#「バカ」に傍点]」と云って、五十恰好の女が何時でも決まった時間に、市役所とか、税務署とか、裁判所とか、銀行とか、そんな建物だけを廻って歩いて、「わが夫《つま》様は米穀何百俵を詐欺《さぎ》横領しましたという――」きまった始まりで、御詠歌のように云って歩く「バカ」のいたのを。ところが上田のお母アは、午後の三時になると、きまって特高室に出掛けて行って、キャンキャンした大声でケイサツを馬鹿呼ばりし、自分の息子を賞《ほ》め、こんなことになったのは他人《ひと》にだまされたんだと云い、息子をとられて、これからどう暮して行くんだ――それだけの事を文句も順序も同じに繰りかえして、進は腕のいゝ旋盤工で、これからどの位出世をするのか分らない大事な一人息子だからと云って、大きな蒲団を運んできたり、暖かい煮物の丼を大事そうに両手にかゝえて持ってきたり、それを特高が拒ばもうがどうが、がなり[#「がなり」に傍点]立てゝ、無理矢理置いて行く。そして次の日には又マントを持ってきたり、手袋を持ってきたりする。特高室は上田のお母アの持ってくるもので一杯になってしまった。警察では「又、気狂いババ[#「気狂いババ」に傍点]が来た」といって取り合わなかった。それでもお母アは平気だった。――あまりやかましいので、一度特高室で進と面会をさしてやった。息子が係りの刑事に連れられて、入ってきたのを見るや否や、いきなり大声で「こン畜生! この親不孝の馬鹿野郎|奴《め》!」と怒鳴《どな》りつけた。刑事の方がかえって面喰らって、「まあ/\、こういう時にはそれ一人息子だ。優《やさ》しい言葉の一つ位はかけてやるもンだよ。」すると、くるりと向き直って「えッ、お前さんなんて黙ってけずかれ[#「けずかれ」に傍点]!」とがなりかえした。ところが、その進が右手一杯にホウ[#「
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