った時、自動車の前を毎朝めし[#「めし」に傍点]を食いに行っていた食堂のおかみさんが、片手に葱《ねぎ》の束を持って、子供をあやしながら横切って行くのを見付けた。
前に、俺はそこの食堂で「金属」の仕事をしていた女の人と十五銭のめし[#「めし」に傍点]を食っていたことがあった。その時、多分いま前を横切ってゆく子供に、奥の方でコックがものを云っているのが聞えた。
「オヤ、この子供は今ンちから豆ッて云うと、夢中になるぜ。いやだなア!」
そんなことを云った。
すると、一緒にめし[#「めし」に傍点]を食っていた女の人が、プッと笑い出して、それから周章てゝ真赤になってしまった。
俺はそれをひょいと思い出したのだ。すると、急にその女の同志に対する愛着の感じが胸をうってきた。その女の人は今どうしているだろう? つかまらないで、まだ仕事をしているだろうか。
自動車は警笛をならした。そこは道が狭まかったのだ。おかみさんはチョッとこっちを振りかえったが、勿論あれ程見知っている俺が、こんな自動車に乗っていようなぞという事には気付く筈《はず》もなく――過ぎてしまった。俺は首を窮屈にまげて、しばらくの間うしろの窓から振りかえっていた。
「もう直ぐだ、あそこの角をまがると、刑務所の壁が見えるよ。」
――俺はその言葉に、だまって向き直った。
青い褌
自動車は合図の警笛をならしながら、刑務所の構内に入って行った。
監獄のコンクリートの壁は、側へ行くと、思ったよりも見上げる程に高く、その下を歩いている人は小さかった。――自動車から降りて、その壁を何度も見上げながら、俺はきつく帯をしめ直した。
皮に入ったピストルを肩からかけ、剣を吊した門衛に小さいカードと引きくらべに、ジロ/\顔をしらべられてから、俺だちは鉄の門を入った。――入ると、後で重い鉄の扉がギーと音をたてゝ閉じた。
俺はその音をきいた。それは聞いてしまってからも、身体の中に音そのまゝの形で残るような音だった。この戸はこれから二年の間、俺のために今のまゝ閉じられているんだ、と思った。
薄暗い面会所の前を通ると、そこの溜《たま》りから沢山の顔がこっちを向いた。俺は吸い残りのバットをふかしながら、捕かまるとき持っていた全財産の風呂敷包たった一つをぶら下げて入って行った。煙草も、このたった一本きりで、これから何年もの間モウのめないのだ!
晴れ上がった良い天気だった。
トロッコのレールが縦横に敷かさっている薄暗い一見地下室らしく見えるところを通って、階段を上ると、広い事務所に出た。そこで私の両側についてきた特高が引き継ぎをやった。
「君は秋田の生れだと云ったな。僕もそうだよ。これも何んかのめぐり[#「めぐり」に傍点]合せだろう。僕から云うのも変だが、何よりまア身体を丈夫にしてい給え。」
ずんぐりした方が一寸テレ[#「テレ」に傍点]て、帽子の縁に手をやった。
ごじゃ/\と書類の積まさった沢山の机を越して、窓際近くで、顎《あご》のしゃくれた眼のひッこんだ美しい女の事務員が、タイプライターを打ちながら、時々こっちを見ていた。こういう所にそんな女を見るのが、俺には何んだか不思議な気がした。
持ちものをすッかり調らべられてから、係が厚い帳面を持ってきて、刑務所で預かる所持金の受取りをさせられた。捕かまる時、オレは交通費として現金を十円ほど持っていた。俺たちのように運動をしているものは、命と同じように「交通費」を大切にしている。――印を押そうと思って、広げられた帳面を見ると、俺の名から二つ三つ前に、知っている名前のあるのに目がとまった。それは名の知れている左翼の人で、最近どうして書かなくなったのだろうと思っていた人だった。ところが、此処にいたのだ。この人も! そう思うと、俺は何んだか急に気が強くなるのを感じた。
それから「仮調所」に連れて行かれて、裸かにされた。チンポも何もすっかり出して、横を向いたり、廻われ右をしたり、身体中の特徴を記録にとられた。俺は自分でも知らなかった背中のホクロを探し出された。其処《そこ》で、俺は「青い着物」をきせられたのだった。
青い着物を着、青い股引《ももひき》をはき、青い褌《ふんどし》をしめ、青い帯をしめ、ワラ草履《ぞうり》をはき、――生れて始めて、俺は「編笠《あみがさ》」をかぶった。だが、俺は褌まで青くなくたっていゝだろうと思った。
向うのコンクリートの建物の間を、赤い着物をきた囚人が一列に並んで仕事から帰ってくるのが見える。
俺は始め身体がどうしても小刻《こきざ》みにふるえて、困った。
「どうだ、初めての着工合は……」
と看守が云った。
俺は、知らないうちに入っていた肩から力を抜いて、ゆっくり、大きく息を吸いこんだ。
「この廊下を真ッ直ぐ
前へ
次へ
全10ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
小林 多喜二 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング