それ以上の屁が出るで弱ってしまった。これではかえって隣りにいる同志はキット俺の健康を気遣《きづか》っているかも知れない。
俺はどうしたのかと思った。診察のとき、屁のことを医者に云った。
「それは醗酵《はっこう》し易い麦飯を食って、運動が不足だからですよ。」
と、このお抱え医者は事もなげに云って、それでも笑った。
そのことがあってから、俺は屁の事について考えた。此処にいると、どんなに些細《ささい》なことに対しても、二日も三日もとッくりと考えられるのだ。そして、これからは次々と出くる屁を、一々|丁寧《ていねい》に力をこめて高々と放すことにした。それは彼奴等《きゃつら》に対して、この上もないブベツ弾になるのだ。殊にコンクリートの壁はそれを又一層高々と響きかえらした。
しばらく経ってから気付いたことだが、早くから来ているどの同志も、屁ばかりでなく、自分独特のくさめ[#「くさめ」に傍点]とせき[#「せき」に傍点]をちアんと持っていて、それを使っていることだった。音楽的なもの、示威的なもの、嘲笑的なもの……等々。
夜になって、シーンと静まりかえっているとき、何処かの独房から、このくさめ[#「くさめ」に傍点]とせき[#「せき」に傍点]が聞えてくる。その癖から、それが誰かすぐ分る。それを聞くと、この厚いコンクリートの壁を越えて、口で云えない感情のこみ上がってくるのを感ずる。
俺だちは同志の挨拶をかわす方法を、この「せき」と「くさめ」と「屁」に持っているワケだ。だから、鼻の穴が微妙にムズ痒《がゆ》くなって、今くさめ[#「くさめ」に傍点]が出るのだなと分ると、それを実に大切にするんだ。
――俺もしばらくして、せき[#「せき」に傍点]とくさめ[#「くさめ」に傍点]に自分のスタイルを持つことに成功した。
オン、ア、ラ、ハ、シャ、ナウ
高い窓から入ってくる日脚の落ち場所が、見ていると順々に変って行って――秋がやってきた。運動から帰ってきて、扉の金具にさわってみると、鉄の冷たさがヒンヤリと指先きにくるようになった。
俺は初めての東京の秋の美しさを、来る日も来る日も赤い煉瓦と鉄棒の窓から見える高く澄みきった空に感じることが出来た。――北の国ではモウ雪まじりのビショ/\雨が降っている頃だ。――今までそうでもなかったのに、隣りの独房でさせているカタ、コトという物音が、
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