。そして、こっそり小さい円《ま》るい鏡に写してみた。すると急に自分の顔が罪人[#「罪人」に傍点]になって見えてきた。俺は急いで鏡を机の上に伏せてしまった。
 雑役が用事の最後に、ニヤ/\笑いながら云った。
「お前さん今度が初めてだね。これで一通りの道具はちゃアんと揃ってるもんだろう。これからこの室が長い間のお前さんのアパアト[#「アパアト」に傍点]になるわけさ。だから、自分でキチン/\と綺麗《きれい》にしておいた方がいゝよ。そしたら却々《なかなか》愛着が出るもんだ。」
 それから、看守の方をチラッと見て、
「ヘン、しゃれたもんだ、この不景気にアパアト住いだなんて!」
 と云って、出て行った。

     長い欧州航路

 監獄に廻わってから、何が一番気持ちがよかったかときかれたら、俺は六十日目に始めてシャボンを使ってお湯に入ったことだと云おう。
 湯槽《ゆぶね》は小じんまりとしたコンクリートで出来ていて、お湯につかっていながら、スウイッチをひねると、ガチャン、ガタン、ガチャン、ガタン、ゴボン、ゴボンとスチームが入ってくるようになっていた。
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入浴時間  十五分
 規定の時間を守らざるものは入浴の順番取りかえることあるべし
[#ここで字下げ終わり]
 警察の留置場にいたときよく、言問橋の袂《たもと》に住んでいる「青空一家」や三河島のバタヤ(屑買い)が引張られてきた。そんな連中は入ってくると、臭《くさ》いジト/\したシャツを脱いで、虱《しらみ》を取り出した。真っ黒なコロッとした虱が、折目という折目にウジョ/\たか[#「たか」に傍点]っていた。
 一度、六十位の身体一杯にヒゼン[#「ヒゼン」に傍点]をかいたバタヤのお爺さんが這入《はい》ってきたことがあった。エンコに出ていて、飲食店の裏口を廻って歩いて、ズケ(残飯)にありついている可哀相なお爺さんだった。五年刑務所にいて、やっとこの正月出てきたんだから、今年の正月だけはシャバでやって行きたいと云っていた。――俺はそのお爺さんと寝てやっているうちに、すっかりヒゼンをうつされていた。それで、この六十日目に入るお湯が、俺をまるで夢中にさせてしまった。
 そこは独房とちがって、窓が低いので、刑務所の広い庭が見えた。低く円るく刈り込まれた松の木が、青々とした綺麗な芝生の上に何本も植えられていて、その間の
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