うだい此の頃は?」
と私が云うと、須山は顎《あご》を撫《な》でゝニヤニヤした。――「一向に不景気で!」
「ヨシちゃんはまだか?」
私は頬杖《ほおづえ》をしながら、頭を動かさずに眼だけを向けて訊《き》いた。
「何が?」
伊藤は聞きかえしたが、それと分ると、顔の表情を(瞬間だったが)少し動かしたが、
「まだ/\!」
すぐ平気になり、そう云《い》った。
「革命が来てからだそうだ。わが男の同志たちは結婚すると、三千年来の潜在意識から、マルキストにも拘《かかわ》らず、ヨシ公を奴隷にしてしまうからだと!」
と須山が笑った。
「須山は自分のことを白状している!」
と伊藤はむしろ冷たい顔で云った。
「良き同志が見付からないんだな。」
私は伊藤を見ながら云った。
「俺じゃどうかな?」
須山はむくりと上半身を起して云った。
「過ぎてる、過ぎてる!」
私はそう云うと、
「どっちが? 俺だろう?」
と、須山がニヤ/\笑った。
「こいつ! 恐ろしく図々しい自惚《うぬぼ》れを出したもんだ!」
三人が声を出して笑った。――私は自分たちの周囲を見渡してみても、伊藤と互角で一緒になれるような同志はそんなにいまいと思っている。彼女が若し本当に自分の相手を見出したとすれば、それはキット優れた同志であり、そういう二人の生活はお互の党生活を助成し合う「立派な」ものだろうと思った。――私は今迄こんなに一緒に仕事をして来ながら、伊藤をこういう問題の対象としては一度も考えたことがなかった。だが、それは如何《いか》にも伊藤のしっかりしていたことの証拠で、それが知らずに私たちの気持の上にも反映していたからである。
「責任を持って、良い奴を世話してやることにしよう。」
私は冗談のような調子だが、本気を含めて云った。が、伊藤はその時苦い顔を私に向けた……。
帰りは表通りに出て、円タクを拾った。自動車は近路をするらしく、しきりに暗い通りを曲がっていたが、突然\賑《にぎ》やかな明るい通りへ出た。私は少し酔った風をして、帽子を前のめりに覆《かぶ》った。
「何処《どこ》へ出たの?」
と訊くと、「銀座」だという。これは困ったと思った。こういうさかり[#「さかり」に傍点]場は苦手なのだ。が、そうとも云えず、私は分らないように、モット帽子を前のめりにした。だが私は銀座を何カ月見ないだろう。指を折ってみると――四カ月も見ていなかった。私は時々両側に眼をやった。私がその辺を歩いたことがあってから随分変っていた。何時の間にか私は貪《むさぼ》るように見入っていた。私は曾《か》つてこれと似た感情を持ったことがある。それは一昨年刑務所へ行っていたときだった。予審廷へ出廷のために、刑務所の護送自動車に手錠をはめられたまゝ載せられて裁判所へ行く途中、私はその鉄棒のはまった窓から半年振りで「新宿」の雑踏を見た。私は一つ一つの建物を見、一つ一つの看板を見、一つ一つの自動車を見、そして雑踏している人たちの一人々々を見ようとした。私は、その人ごみの中に、誰か顔見知りの同志でも歩いているのではないだろうかと、どの位注意したか分らなかった。その後、刑務所の独房に帰ってから一二日眼がチカ/\と痛かったことを覚えている。
自動車が四丁目の交叉《こうさ》点にくると、ジリ、ジリ、ジリとベルが鳴って、向う側の電柱に赤が出た。それで私の乗っている自動車は停車線のところで停まってしまった。直《す》ぐ窓際を色々な人の群がゾロゾロと通って行った。私は気が気でなかった。なかには車の中を覗《のぞ》き込んでゆくものさえいる。私は、イザと云えば逃げられるように、反対側のドアーのハンドルに手をかけたまゝ、顎《あご》を胸に落していた。やがて、ジリ、ジリ、ジリとベルが鳴り出した。私はホッとしてハンドルの手をゆるめた。
私はゾロ/\と散歩をしている無数の人たちを見たが、そう云えば、私は自分の生活に、全く散歩というものを持っていないことに気附いた。私にはブラリ[#「ブラリ」に傍点]と外へ出るということは許されていないし、室の中にいても、うかつに窓を開けて外から私の顔を見られてはならないのだ。その点では留置場や独房にいる同志たちと少しも変らなかった。然しそれらの同志たちよりも或《あ》る意味ではモットつらいことは、ブラリと外へ出ることが出来て、しかもそれを抑《おさ》えて行かなければならなかったからである。
だが、私にはどうしてもそうしなければならぬという自覚があったからよかったが、一緒にいる笠原にはずい分そのことがこたえる[#「こたえる」に傍点]らしかった。彼女は時には矢張り私と一緒に外を歩きたいと考える。が、それがどうにも出来ずにイラ/\するらしかった。それに笠原が昼の勤めを終って帰ってくる頃、何時でも行きちがいに私が外へ出た。私は昼うちにいて、夜ばかり使ったからである。それで一緒に室の中に坐るという事が尠《すく》なかった。そういう状態が一月し、二月するうちに、笠原は眼に見えて不機嫌《ふきげん》になって行った。彼女はそうなってはいけないと自分を抑えているらしいのだが、長いうちには負けて、私に当ってきた。全然個人的生活の出来ない人間と、大部分の個人的生活の範囲を背後に持っている人間とが一緒にいるので、それは困ったことだった。
「あんたは一緒になってから一度も夜うちにいたことも、一度も散歩に出てくれたこともない!」
終《しま》いには笠原は分り切ったそんな馬鹿なことを云った。
私はこのギャップを埋めるためには、笠原をも同じ仕事に引き入れることにあると思い、そうしようと幾度か試みた。然《しか》し一緒になってから笠原はそれに適する人間でないことが分った。如何にも感情の浅い、粘力のない女だった。私は笠原に「お前は気象台[#「気象台」に傍点]だ」と云った。些細《ささい》のことで燥《はしゃ》いだり、又逆に直《す》ぐ不貞腐《ふてく》された。こういう性質《たち》のものは、とうてい我々のような仕事をやって行くことは出来ない。
勿論《もちろん》一日の大半をタイピストというような労働者の生活からは離れた仕事で費し、帰ってきてからも炊事や、日曜などには二人分の洗濯などに追われ、それは随分時間のない負担の重い生活をしていたので、可哀相《かわいそう》だったが、彼女はそこから自分でグイと一突き抜け出ようとする気力や意識さえもっていなかった。私がそうさせようとしても、それに随《つ》いて来なかった。
私は自動車を途中で降り、二《ふた》停留所を歩き、それから小路に入り、家に帰ってきた。笠原は蒼《あお》い、浮かない顔をして室の中に横坐りに坐っていた。私の顔をみると
「首になったわ……」
と云った。
それがあまり突然なので、私は立ったまゝだまって相手を見た。
――笠原は別に何もしていなかったのだが、商会では赤いという噂《うわ》さがあった。それで主任が保証人である下宿の主人のところに訪ねてきた。ところが、彼女は以前からそこにいないということが分ってしまった。私のアジトは絶対に誰にも知らしてはならないので、彼女は自分の下宿を以前のところにしてあったのである。商会ではそれでいよ/\怪しいということになり、早速やめさせたのだった。
私は今迄笠原の給料で間代や細々《こまごま》した日常の雑費を払い、活動に支障がないように、やっとつじつまを合せてきていたので、彼女の首は可なりの打撃だった。だが、そうと決れば、この際少しでも沢山の金を商会から取ることだったが、私が非合法なので強いことは云えなかった。事実、主任は警察の手が入らないだけ君の儲《もう》けなのだから、おとなしく引いて貰《もら》いたいと、暗に釘を打っていた。
私たちはテキ面に困って行った。悪いことには、それが直《す》ぐ下のおばさんに分る。下宿だけはキチンとして信用を得て置かなければ、うさん臭く思われる。そうなるとそれはたゞ悪いというだけで済まなくて、危険だった。それで下宿代だけはどうしても払うことにした。だがそうすると、あと二三円しか残らなかった。二三円などは直ぐ無くなる。笠原は就職を探すために、毎日出掛けて行くし、私も一日四回平均には出なければならなかった。私は今まで乗りものを使っていたところを歩くことにした。そのために一つの連絡をとるのに、その前後三四十分という時間が余分にかゝり処《ところ》によると往きと帰りに二時間もかゝり、仕事の能率がメキ/\と減って行った。私は「基金カンパ」を起しているのだと云って、会う同志毎に五銭、十銭とせしめた。こうなると、須山の「神田伯山」もないものだ、と私は苦笑した。須山や伊藤は心配してくれた。自分たちは合法的な生活をしているので、金が無くても致命的ということは尠《すくな》いし、それに誰からでも金は借りられると云うので、日給から五十銭、一円と私のために出してくれた。私は、そういう金はウカツに使えないと思ったので、仕事のための交通費に当て、飯の方を倹約した。なす[#「なす」に傍点]が安くて、五銭でも買おうものなら、二三十もくるので、それを下のおばさんのヌカ味噌[#「ヌカ味噌」に傍点]の中につッこんで貰《もら》って、朝、ひる、夜、三回とも、そのなす[#「なす」に傍点]で済ました。三日もそれを続けると、テキ面に身体にこたえてきた。階段を上がる度に息切れがし、汗が出て困った。
腹が減り、身体が疲れているのに、同じものだと少しも食欲が出なかった。終《しま》いには飯にお湯をかけ、眼を力一杯につぶって、ザブ/\とかッこんだ。それでも飯のあるときはよかった。夜三つ位の連絡を控えていて、それも金がないので歩き通さなければならない時、朝から一度しか飯を食っていない時は、情けない気がした。私は一度その同志に会えたらパン位にはありつけるだろうと、当てにして行ったのだが、まんまと外ずれてしまったことがあった。その同志は気の毒そうな顔をして、自分はこの次にMに会うが、或いはパン代位は出そうだから一緒に行ってみようと云った。Mとは顔見知りだし、我慢の出来なくなった私はそうすることにした。私はそこでパンとバタにありつけた。Mは「パン一斤《きん》食うために、大の男がのこ/\出掛けてきて、つかまったりしたら、事だぜ!」と笑った。「まず、我にパンを与えよ、だよ!」私はそんなことを云って笑ったが、――こういう状態が続くということは全くよくないことだと思った。しっかりと腰を据え、長い間決してつかまらずに仕事をしてゆくためには、こんな無理や焦り方をしては駄目だ。
私は最後の手段をとることにきめた。その日帰ってきて、私は勇気を出し、笠原にカフェーの女給になったらどうかと云った。彼女は此頃では毎日の就職のための出歩きで疲れ、不機嫌になっていた。私の言葉をきくと、彼女は急に身体を向き直し、それから暗いイヤな顔をした。私はさすがに彼女から眼をそらした。だが、彼女はそれっきり頑《かた》くなに黙りこんだ。私も仕方なく黙っていた。
「仕事のためだって云うんでしょう……?」
笠原は私を見ずに、かえって落付いた低い声で云った。それから私の返事もきかずに、突然カン高い声を出した。
「女郎にでもなります!」
笠原は何時《いつ》も私について来ようとしていないところから、為《な》すことのすべてが私の犠牲であるという風にしか考えられなかった。若《も》しも犠牲というならば、私にしろ自分の殆《ほと》んど全部の生涯を犠牲にしている。須山や伊藤などゝ会合して、帰り際になると、彼等が普通の世界の、普通の自由な生活に帰ってゆくのに、自分には依然として少しの油断もならない、くつろぎのない生活のところへ帰って行かなければならないと、感慨さえ浮かぶことがある。そして一旦《いったん》つかまったら四年五年という牢獄が待ちかまえているわけだ。然しながら、これらの犠牲といっても、幾百万の労働者や貧農が日々の生活で行われている犠牲に比らべたら、それはものゝ数でもない。私はそれを二十何年間も水呑《みずのみ》百姓をして苦しみ抜いてきた父や母の生活からもジカに知ること
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