家が無いかと訊《き》いた。然《しか》し今迄彼女はもう殆《ほと》んど知っている家は、私のために使ってしまっていた。商会の女の友達も二三人はいるが、それはこッちの運動のことなど少しも分っていないし、「それにみんなまだ独り[#「独り」に傍点]」だった。笠原はしきりに頭を傾《かし》げて考えていたが、矢張り無かった。時計を見ると十時近い。十時過ぎてから外をウロつくのは危険この上もなかった。それに私はまだナッパ服のまゝなので、一層危険だった。女の友達なら沢山頼めるところがあるのだが、「君、男だから弱る」と笠原は笑った。私も弱った。然しいずれにしろ私は捕まってはならないとすればたった一つのことが残されていた。それを云い出すには元気が必要だったが。
「こゝ[#「こゝ」に傍点]は、どうだろう……?」
 私は思いきって云い出したが、自分で赤くなり、吃《ども》った。――人には大胆に見えるだろうが、仕方がなかった。
「…………!」
 笠原は私の顔を急に大きな(大きくなった)眼で見はり、一寸《ちょっと》息を飲んだ。それから赤くなり、何故《なぜ》かあわてたように今迄横座りになっていた膝《ひざ》を坐り直した。
 しばらくして彼女は覚悟を決め、下へ降りて行った。S町にいる兄が来たので、泊って行くからとことわって来た。だが、兄というのはどう考えても可笑《おか》しかった。彼女は簡素だが、何時でもキチンとした服装をしていて、髪は半[#「半」に傍点]断髪《?》だった。そこにナッパを着た兄でもなかった。彼女がそう云うと、下のおばさんは子供ッぽい笠原の上から下を、ものも云わないで見たそうである。彼女はさすがに固い、緊張した顔をしていた。普通の女にとってたゞ男が泊《とま》るということでも、それは只事《ただごと》ではなかったのであろう。
 そういう風に話が決まると、二人とも何んだか急にぎこちなくなり、話が途切《とぎ》れてしまった。私は鉛筆と紙を借り、次の日のプランを立てるために腹ン這《ば》いになった。即刻太田の補充をすること、太田の検挙のことをビラに書いれて倉田工業の全従業員に訴えること。私は原稿を鉛筆を嘗《な》め/\書いた。フト気付くと、女が自分から「もう寝ましょう」と云えないでいることに気付いた。それで、
「君何時に寝るんだい?」
と訊いてみた。
 すると「大抵今頃……」と云った。
「じゃ寝ようか。僕の仕事も一段落付いたから。」
 私は立ち上がって、あくびをした。
 蒲団《ふとん》は一枚しか無かった。それで私は彼女が掛蒲団《かけぶとん》だけを私へ寄こすというのを無理に断って、丹前だけで横になった。電燈を消してから、女は室の隅の方へ行って、そこで寝巻に着換るらしかった。
 私は今迄(自分の家を飛び出してから)色々な処を転々として歩いたので、こういう寝方には慣れていたし、直ぐ眠れた。然し女のところは初めてだった。さすがに寝つきが悪かった。私はウトウトすると夢を見て直《す》ぐ眼をさました。それが何べんも続いた。見る夢と云えば、追いかけられている夢ばかりだった。夢では大抵そうであるように、仲々思うように逃げられない。そして気だけが焦る。あ、あっ、あっ、あ、あ……と思うと、そこで眼が覚めた。ジッとしていると、頭の片方だけがズキン、ズキンと鈍くうずいた。私は殆んど寝たような気がしなかった。そして何べんも寝がえりを打った。――然し笠原は朝までたゞの一度も寝がえりを打たなかったし、少しでも身体を動かす音をさせなかったのである。私は、女が最初から朝まで寝ない心積《つも》りでいたことをハッキリとさとった。
 それでも私は少しは寝たのだろう。眼をさますと、笠原の床はちゃんと上げられて、彼女は炊事で下に降りているのか、見えなかった。しばらくして、笠原は下から階段をきしませて上がってきた。そして「眠れた?」と訊《き》いた。「あ」と私は何だかまぶしく、それに答えた。
 下宿は笠原の出勤時間に一緒に出た。下のおばアさんは台所にいたが、その時手を休めて私の後を見送った。
 外に出るや否や、笠原は恰《あた》かも昨日からの心配事を一気に吐き出すように、
「あ――あ――」
と、大きな声を出した。それから「クソばゞア!」と、そッとつけ加えた。



 その夜Sに会ったとき、昨夜のことを話すと、そいつは悪いと行って、間借の金を支度してくれた。私は家を見付けて置いたので、須山と伊藤に道具を揃《そろ》えてもらって、直《す》ぐ引き移ることにした。はじめ倉田工業と同じ地区にするのが良いか悪いかで随分迷った。同じ地区だと可成り危険性がある。然《しか》し他の地区ということになれば交通費の関係上困った。こんな場合は勿論《もちろん》他の地区の方が良かったが、然し警察は案外私が他の地区に逃げこんだと思っているかも知れない。だから彼奴等の裏をかいて、同じ地区にいるのも悪くないと思った。嘗《か》つてこんな事がある。今ロシアに行っている同志のことであるが、その同志は他の同志が江東方面で活動している時は反対の城西方面に出没しているという噂《うわ》さを立てさせる戦術をとっているという話を聞くと、そいつは拙《まず》い、俺ならば江東にいる時には、かえって江東にいるという噂さを立てさせると云ったそうだ。私はこの地区ではまだ具体的にはスパイに顔を知られていなかった、それに工場もやめたので経済的な根拠から同じ地区に下宿を決めることにした。
 下宿はどっちかと云《い》えば、小商人の二階などが良かった。殊《こと》にそれが老人夫婦であれば尚《なお》よかった。その人たちは私たちの仕事に縁遠いし、二階の人の行動には、その理解に限度がある。なまじっか知識階級の家などは、出入や室の中を一眼見ただけでも、其処《そこ》に「世の常の人」らしからぬ空気を敏感に感じてしまうからである。然し、警察どもは小商人などのところへは度々《たびたび》戸籍調らべにやって来て、無遠慮な調らべ方をして行く代りに、門構でもあるような家には二度のところを一度にし、それもたゞ「変ったことがありませんか」位にとゞめる。――今度の下宿はその中間をゆく家だった。おばさんはもと待合をしていたことがあるとか云って、誰かの妾《めかけ》をしているらしかった。
 須山や伊藤から荷物を一通り集めて、ようやく落付くと私はホッとした。たゞ下の室に同宿の人がいるのが欠点だった。それで、第一にその人がどんな人か知る必要があった。私は便所へ降りて行った。同宿の人の室の障子が開いて居り、その人はいなかった。私は何より本箱[#「本箱」に傍点]に眼をやった。これは私が新しい下宿に行って、同宿のある時に取る第一の手段だった。本箱を見ると、その人が一体どういう人か直《す》ぐ見当がつくからである。――本箱には極く当り前の本ばかりが並んでいた。何処《どこ》かの学校の先生らしく、地理とか、歴史の本が多かった。ところが、机の上に「日本文学全集」が載っていた。フト見ると、「片岡鉄兵」や「葉山嘉樹《よしき》」などの巻頭の写真のところが展《ひろ》げられたまゝになっていた。然しその種の本はそれ一冊だけで、その他には持っていないらしかった。
 僕たちの仲間で、折角移ってきたところが、その下宿の主人が警察に勤めている人であったという例が沢山ある。が、下宿の主人の商売がすぐ分るのはよい方で時には一カ月も分らないまゝでいることさえある。「ご主人は何商売ですか」というこの単純な問いも、こっちがこっちだけに、仲々淡泊には訊《き》けないのだ。
 私はおばさんにお湯屋の場所をきいて、外へ出た。第二段の調査のためである。まず毎日出入りする道に当る家並の門礼を、石鹸《せっけん》とタオルを持った恰好《かっこう》で、ブラブラと見て歩いた。五六軒見て行くと、曲り角に「警視庁巡査――」の名札があった。然しそれは大きな邸宅の裏門に出ているので、大して心配が要らない。お湯屋から出ると、今度はその辺にある小路や抜け路を調らべて帰ってきた。一般にこの市は(他の市もそうかも知れないが)奇妙なことには、工場街と富豪の屋敷街がぴったりくっついて存在しているということである。今度のところも倉田工業のある同じ地区にも拘らず、ゴミ/\した通りから外《は》ずれた深閑とした住宅地になっていた。それにいいことには、しん閑とした長い一本道を行くと直ぐにぎやかな通りに続いていることで、用事を足して帰ってきても、つけ[#「つけ」に傍点]られているか居ないかが分ったし、家を出てしまえば直《す》ぐにぎやかな通りに紛ぎれ込んでしまえるので、案外条件が良かった。
 二階の私の室の窓は直ぐ「物干台」に続いていた。そして隣りの家の物干までには、一またぎでそこからは容易《たやす》く別な家の塀《へい》が越せることが分った。私はそれで草履《ぞうり》一足買ってきて、窓を開いたら直ぐ履けるように、物干台に置くことにした。たゞ困ったことは、この辺の家は「巴里《パリ》の屋根の下」のように立て込んでいるので、窓を少しでも開《ひら》くと、周囲の五六軒の家の人たちやその二階などを間借りしている人たちに顔を見られる危険性があった。それらの家の職業がハッキリするまで、私は四方を締め切って坐り込んでいなければならなかった。それで私は世間話をするために、下へ降りていった。世間話から近所の様子を引き出そうと思ったのである。
 聞いてみると法律事務所へ通っている事務員、三味線のお師匠さん、その二階の株屋の番頭さん、派出婦人会、其他七八軒の会社員、ピアノを備えつけている此の辺での金持の家などだった。下宿を決めた夜のうちに、隣近所のことがこれだけ分ったということは大成功である。或《ある》いは口喧《やか》ましい派出婦人会だけを除くと、まず周囲はいゝ方と云わなければなるまい。
 たゞ、今迄《いままで》の経験で、アジトを襲われたり、アジトに変なことがあったりしたら直ぐ出掛けて行ける宿所を作って置かなければならない。どんなに安全そうに見えても、それは少しも何時までもの安全を意味してはいない。事実、私はこの前の前の下宿で、移ってから二日目だというのに、お湯へ行って帰ってくると、下宿の前に洋服を着た男が立っているのだ。そこは一本道で、私はその男を発見したが、そこからは引ッ込みのつかないほど間近に来てしていた。私は仕方なしに、身体をフラ/\と振り、濡《ぬ》れ手拭《てぬぐい》を眼につくように垂らし、ウロ覚えの「幻の影をしたいて、はるばると……」を口笛で吹いて、下宿には入らずに通り過ぎた。洋服の男は私の方を見たようだったが、その見方は張り込んでいる見方にしては、何処《どこ》か不審なところがあるように思われた。私は暫《しば》らく来てから振りかえってみた。が、男は未だ立って居り、こっちを見ている。私はその夜同志のところへ転げこんだ。その同志は経験のある同志で、第一にそんな張り込み方がないこと、第二に新しく移ってきて二三日もしないうちに、何等かの予備的調査もなくやってくるという事は有り得ないという判断から、次の日人を使って調らべたら、何んでもないことが分ったが。とにかく即刻やってくる災害に対して即刻に応じ得られる第二段の構をして置くことが常に必要である。私は次の連絡のとき、笠原にこのことを依頼した。

 仕事は直ぐ立ち直った。太田のあとは伊藤ヨシが最近メキ/\と積極的になったので、それを補充することにした。弾圧の強襲が吹き捲《まく》っているときに、積極性を示すものは仲々数少なかったのだ。彼女は高等程度の学校を出ていたが、長い間の《転々とはしていたが》工場生活を繰りかえしてきたために、そういう昔の匂いを何処にも持っていなかった。この女は非合法にされてからは、何時《いつ》でも工場に潜《も》ぐりこんでばかりいたので、何べんか捕《つ》かまった。それが彼女を鍛えた。潜ぐるとかえって街頭的になり、現実の労働者の生活の雰囲気から離れて行く型と、この伊藤は正反対を行ったのである。伊藤は警察に捕かまる度に母親が呼び出され引き渡されたが、半日もしないうちに又家を飛び出し潜ぐって
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