左の眼の隅《すみ》に背広を置いて、油断をしなかった。背広はどっちかと云えば、毎日のおきまり仕事にうんざりして、どうでもいいような物ぐさな態度だった。彼等はこの頃では毎日、工場の出《で》と退《ひ》けに張り込んでいた。須山はこの直ぐ横を如何にも背広を小馬鹿にしたように、外開《そとびら》きの足をツン、ツンと延ばして歩いてゆく。それがこっちから見ていると分るので、可笑《おか》しかった。
電車路の雑沓に出てから、私は須山に追いついた。彼は鼻をこすりながら、何気ない風に四囲《まわり》を見廻わし、それから、
「どうもおかしいんだ……」
と云う。
私は須山の口元を見た。
「上田がヒゲ[#「ヒゲ」に傍点]と切れたんだ……!」
「何時《いつ》だ?」
私が云った。
「昨日。」
ヒゲ[#「ヒゲ」に傍点]は「予備線」など取って置く必要のない男だとは分っていたが、
「予備はあったのか?」と訊《き》いた。
「取っていたそうだ。」
彼の話によると、昨日の連絡は殊《こと》の外重要な用事があり、それは一日遅れるかどうかで大変な手違いとなるので、S川とM町とA橋この三つの電車停留所の間の街頭を使い、それもその前日
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