んで、それを今度は一段と高いところから見ることを忘れていたのだ。
「だから、つまりみんなの自然発生的な気持に我々までが随《つ》いて歩いてるわけだ。日常の不満から帝国主義戦争の本質をハッキリさせるためには、特別の、計画的な、それになかなか専門的な努力が要るんだ――そいつを分らせることが必要なわけだ……。」
 ビラは今迄に沢山出されてきた公式的な抽象的な戦争反対のビラの持っている欠点を埋めようとして、今度は逆に問題を経済的な要求の限度にとゞめてしまう誤りを犯していると云った。得てそういう右翼的偏向は、大衆追随をしているので一応評判が良いものだ。従って「評判が良い」という事も、矢張り慎重に考察してみる必要がある、私達は歩きながら、そういう事について話した。
「気をつけるというので、今度は木と竹を継いだようになったら何んにもならない。逆戻りだ! 今迄僕等は眼隠しされた馬みたいに、もの[#「もの」に傍点]事の片面、片面しか見て来なかったんだ。」
 私たちはしばらく歩いてから、喫茶店に入った。
「ラヴ・レターをあげるよ。」
 私はそう云って原稿をテーブルの下の棚に置いた。――Sはクン、クンと鼻歌をうたいながら、ウェーターを注意しいしい、それをポケットへねじ込んだ。彼は、そして、
「君の方からヒゲ[#「ヒゲ」に傍点](と云って、鼻の下を抑えて見せて、)につか[#「つか」に傍点]ないかな?」と訊《き》いた。
 私は工場の帰り須山から聞いたことを話した。Sはワザと鼻歌をクンクンさせながら、しかし眼に注意を集めて聞いていた。それが癖だった。
「僕の方も昨日六時にあったが切れたんだ。」
 私はそれを聞くと、胸騒ぎがした。
「やられたんだろうか……?」
と私は云った。が実は、いや大丈夫だと云われたいことを予想していた。
「ふむ、――」
 Sは考えていたが、「用心深い奴だったからな。」と云った。
 私達はどっちからでもヒゲ[#「ヒゲ」に傍点]につく方からつけることにし、それから次の朝のビラ持ち込みの打ち合わせをして別れた。

 九時、須山に会うと、私はその顔色を見ただけで分った。然《しか》しそれでもまだ全部が絶望だというわけではなかった。須山とも出来るだけの方法をつくして、ヒゲの調査をすることにした。そして直ぐ別れた。
 私達は自分のアジト附近での連絡でなかったら、九時半過ぎには一切の用事をしないことにしている。途中が危険だからである。――私は須山とも別れ、独りになり帰ってくると、ヒゲのことが自分でも意外な深さで胸に喰い込んでいることを知った。私は何んだか歩くのに妙な心もとなさを覚えた。膝《ひざ》がゆるんで、息切れさえするようである。――普通の境遇で生活をしている人には、こういう時の私のこんな現象が幾分の誇張とウソを伴っているとみるかも知れない。然《しか》し外部からすべてを遮断され、個人的な長い間の友達とも全部交渉を断ってしまい、一寸《ちょっと》お湯へ行くのにもウッかり出ることが出来ず、且《か》つ捕かまったら少なくとも六年七年は行く身体では、頼りになるのは同志ばかりである。それは一人でも同志が奪われてみると、その間をつないでいた私達の気持の深く且つ根強かったことを感ずる。それがしかも私達を何時《いつ》でも指導してきていた同志の場合、特にそうである。――以前ある反動的組合のなかで反対派として合法的に活動していた時は、同じことがあってもこれ程でもなかった。その時は矢張り争われず、日常の色々な生活がそれをまぎらしていたからであろう。
 下宿には太田が待っていた。――私は自分のアジトを誰にも知らせないことにしていたが、上《うえ》の人との諒解《りょうかい》のもとに一人だけに(太田に)知らせてあった。それは倉田工業で仕事をするためには、どうしても専任のものを一人きめて、それとは始終会う必要があった。外で会っているのでは即刻のことには間に合わなかったし、又充分なことが(色々な問題について納得が行くようには)出来なかった。
 太田は明日入れるビラについて来ていた。それで私はさっきSと打ち合わせてきたことを云い、明朝七時T駅の省線プラットフォームに行って貰うことにした。そこへSがやって来て、ビラを手渡すことになっていた。
 急ぎの用事を済ましてから、私達は少し雑談をした。「雑談でもしようか」ニコ/\そう云い出すと、「得意のやつ[#「やつ」に傍点]が始まったな!」と太田が笑った。用事を片付けてしまうと、私は殆《ほと》んどきまって「雑談をしようか」と、それも如何《いか》にも楽しそうに云い出すので、今ではそれは私の得意の奴という事になっていた。ところが、私は此頃になって、自分がどうして「雑談」をしたがるのか、その理由《わけ》に気付いた。――私たちは仕事のことでは殆《ほと》んど
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