いる背広が何時も同じ顔ぶれなのでよかったが、遠くから別な顔が立っている時には、自分は歩調をゆっくりにし、帽子の向きを直し、近付く前に自分の知っている顔であるかどうかを確かめる。この第一関門がパッスすると、今度は門衛の御検閲だ。然しそこはビラを持って入るものがこれに引ッ掛からないようにすることだった。太田はそれには女のメンバーを使っていた。太田によると「成るべく女のお臍《へそ》から下の方へ入れると安全だ」った。彼奴等はまだそこを調らべるほどには恥知らずになってはいないらしい。
次の朝、衣服箱を開けると、ビラが入っている! 波のような感情が瞬間サッと身体を突走ってゆく。職場に入って行くと、隣りの女がビラを読んでいた。小学生のように一字一字を拾って、分らない字の所にくると頭に小指を入れて掻《か》いていた。私を見ると、
「これ本当!」
と訊《き》いた。十円のことを云っているのだ。
私は、本当も本当、大本当だろうといった。女は、すると、
「糞《くそ》いま/\しいわネ。」
と云った。
工場では私は「それらしい人間」として浮き上がっている。私はビラの入る入らないに拘《かかわ》らず、みんなが会社のことを色々としゃべり合っている事についてはその大小を問わず、何時でも積極的に口を入れ、正しいハッキリした方向へそれを持ってゆくことに心掛けていた。何か事件があったときに、何時でも自分達の先頭に立ってくれる人であるという風な信頼は普段からかち[#「かち」に傍点]得て置かなければならないのである。その意味で大衆の先頭に立ち、我々の側に多くの労働者を「大衆的に[#「大衆的に」に傍点]」獲得しなければならぬ。以前、工場内ではコッソリと、一人々々を仲間に入れて来るようなセクト主義的な方法が行われていたが、その後の実践で、そんな遣《や》り方では運動を何時迄《いつまで》も大衆化することが不可能であることが分ったのである。
仕事まで時間が少し空《あ》いていたので、台に固って話し合っている皆の所へ出掛けようとしていると、オヤジがやって来た。
「ビラを持っているものは出してくれ!」
みんなは無意識にビラを隠した。
「隠すと、かえって為《た》めにならないよ。」
オヤジは私の隣りの女に、
「お前、さ、出しな。」
と云った。女は素直《すなお》に帯の間からビラを出した。
「こんな危いものをそんなに大切に持
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