争われない事実
小林多喜二

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)吃驚《びっくり》した

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)たゞれ[#「たゞれ」に傍点]て

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)涙をポロ/\出しながら
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 誰よりも一番親孝行で、一番おとなしくて、何時でも学校のよく出来た健吉がこの世の中で一番恐ろしいことをやったという――だが、どうしても母親には納得がいかなかった。見廻りの途中、時々寄っては話し込んで行く赫ら顔の人の好い駐在所の旦那が、――「世の中には恐ろしい人殺しというものがある、詐偽というものもある、強盗というものもある。然し何が恐ろしいたって、この日本の国をひッくり返そうとする位おそろしいものがないんだ」と云った。
 矢張り東京へ出してやったのが悪かった、と母親は思った。何時でも眼やに[#「やに」に傍点]の出る片方の眼は、何日も何日も寝ないために赤くたゞれ[#「たゞれ」に傍点]て、何んでもなくても独りで涙がポロポロ出るようになった。
 角《かど》屋の大きな荒物屋に手伝いに行っていたお安が、兄のことから暇が出て戻ってきた。
「お安や、健は何したんだ?」
 母親は片方の眼からだけ涙をポロ/\出しながら、手荷物一つ持って帰ってきた娘にきいた。
「キョウサントウだかって……」
「何《な》にキョ……キョ何んだって?」
「キョウサントウ」
「キョ……サン……トウ?」
 然し母親は直ぐその名を忘れてしまった。そしてトウトウ覚えられなかった。――
 小さい時から仲のよかったお安は、この秋には何とか金の仕度をして、東京の監獄にいる兄に面会に行きたがった。母と娘はそれを楽しみに働くことにした。健吉からは時々検印の押さった封緘葉書が来た。それが来ると、母親はお安に声を出して読ませた。それから次の日にモウ一度読ませた。次の手紙が来る迄、その同じ手紙を何べんも読むことにした。
         *
 とり入れ[#「とり入れ」に傍点]の済んだ頃、母親とお安は面会に出てきた。母親は汽車の中で、始終手拭で片方の眼ばかりこす[#「こす」に傍点]っていた。
 何べんも間誤つき、何べんも調らべられ、ようやくのことで裁判所から許可証を貰い、刑務所へやってきた。――ところが、その入口で母親が急に
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