「お客さんがないと髪結賃《かみゆいちん》もくれないの。この髪ずウと前のよ」
「……うん」龍介は髪結賃はいくらだ、と訊《たず》ねようと思った。それぐらいなら出してやってもいい気がした。
「ね、上るだけの金がなかったら髪結賃だけでもちょうだいよ……三十銭」女はそう言ってぎこちなく笑った。そして身体をちょっと振って、外方《そと》を見た。
彼はせっかくの気持がこじけて、イヤになった。その時、家の前を四十ぐらいの貧相な女が彼の方を時々見ながら行ったり来たりしているのに気づいた。龍介は女に、「ない。また来る」そう言って、戻った。ほかの人にこんなところを見られたくなかったからだった。龍介はちょっと来てから道ばたの雪に小用を達《た》した。用を達しながら、今の家の方を見た。往来をウロウロしていた四十|恰好《かっこう》の貧相な女がさっきの女と、家の側の薄暗いところに立って話をしていた。年|老《と》った方の女が包みから何か出して相手に渡した。若い方はじいとうつむいていた。しばらく何か話していた。
――龍介には分った!
女のおっ母さんだったのだと思うと、彼は真赤になった。そして急いで次の通りへ出た。
次の晩、龍介はもし女がいたら髪結賃をやろうと思って、そこを通った。蟇口《がまぐち》から三十銭出すと、手に握って持った。歩きながら、ワザと口笛をふいた。そしたら女は顔を出す、と思った。前まで来たが、出てこなかった。龍介は往来でちょっと蹲《かが》[#ルビの「かが」は底本では「かがん」と誤植]んで中をのぞいてみた。いないようだった。彼は入口まで行った。障子にはめてある硝子《ガラス》には半紙が貼《は》ってあって、ハッキリ中は見えなかったが、女はいなかった。龍介は入口の硝子戸によりかかりながら、家の中へちょっと口笛を吹いてみた。が、出てこない。その時、龍介はフト上りはなに新しい爪皮《つまかわ》のかかった男の足駄がキチンと置かれていたのを見た。瞬間龍介はハッとした。とんでもないものを見たような気がした。そこから帰りながら変に物足らない気持を感じた。そして何かしら淋しかった。
しばらくして龍介はオーヴァーのポケットにつっこんでいた右手にしっかり三十銭を握っていたのに気づいた。龍介はいきなり降り積った雪の中にそれをなげつけた。が、三つの銀貨は雪の中にちっとも手答えらしい音をさせなかった。
そして今夜で三回だ、龍介はフトそう思うと、何んのためにこう来るか、自分の底に動いているある気持を感じて、ゾッとした。女は外へは出ていなかった。が、足音を聞くとすぐ出てきた。
「兄さん、お寄り……よ」そう言いながら、彼の顔を見て、「この前の……また、ひやかし?」と言った。
「上るんだよ」ちょっと声がかすれた。
「本当?」と女はきいた。
五
廊下の板が一枚一枚しのり返っていて、歩くとギシギシいった。女は座蒲団《ざぶとん》を持って先に立ちその一番端しの室に彼を案内した。女は金を受取ると出ていった。廊下を行く足音を龍介はじいときいていた。彼はきゅうに身体が顫《ふる》えてきた。
龍介はズボンに手をつっこみ、小さい冷えきった室の中を歩いた。彼はこういう所に一人で来たこれが初めだった。来たい意思はいつでも持った。夜床の中で眼をさますと、何かの拍子から「いても立ってもいられない」衝動を感ずることがあった。そうすると口では言えないいろいろ淫猥《いんわい》なことが平気にそれからそれへととっぴに彩《いろどり》をつけて想像される。それがまた逆に彼の慾情を煽《あお》りたてた。が、彼はただ単純に、それだからといってこういう所へは来れなかった。彼は出かけることもあった。が、結局何もせずに帰った。それは普通いう「道徳的意識」からではなしに、彼の金で女の「人間として」の人格を侮辱《ぶじょく》することを苦しく思うことはもっと彼自身にとってぴったりした、生えぬきの気持からだった。
友だちといっしょにこういう処にくることがあった。が、彼はしまいまで何もせずに帰る。そんな時彼は友だちに「童貞の古物なんかブラ下げているなよ、みっともない!」 と言われる。が、それは彼には当っていなかった。彼は童貞をなくすことにはそう未練を持っていない。ただその場合だって、お互が人格的な関係にあることが、彼には絶対に必要だった。彼は友だちのように、「商売女は商売女さ」そうはなれなかった。彼はそういう女をどうしてもエロチックには感ぜられなかった。すぐその惨めさがきた。それで彼は生理的な発作のようにくる性慾のために、夜通し興奮して寝れないことがあった。こんなことで苦しむのはばかげたことかもしれない。が、プルドーンが、そんな時屋根の上にあがり、星を眺め、気を沈め、しばらくそうしてから室に帰り眠るということをきいて、同感だった。同じ気持の人がいるかと思うとうれしかった。
彼は顫《ふる》えがとまらなかった。何度も室の中を行ったり来たりした。彼は次の間を仕切っている襖《ふすま》をフトあけてみた。乱雑に着物がぬぎ捨てられてある、女の部屋らしく、鏡台がすぐ側にあった。その小さい引出しが開けられたままになっていたり、白粉刷毛《おしろいばけ》が側に転がっていた。その時女の廊下をくる音をきいた。彼は襖をしめた。
女は安来節《やすぎぶし》のようなのを小声で歌いながら、チリ紙を持って入ってきた。そしてそこにあった座布団を二つに折ると××××(以下略)
龍介はきゅうに心臓がドキンドキンと打つのを感じた。「ばか、俺は何もするつもりじゃないんだ」彼は少しどもった。女は初め本当にせず、×××××。龍介はだまって立っていた。
「本当?」
「本当だ」
「そう?……」×××そして、もう一度「本当?」とききなおした。女は立ち上った。
女は酒をとりに室を出ていった。龍介は室の真中に仰向けにひっくり返った。低い天井板が飴色《あめいろ》にすすけてところどころ煤《すす》が垂れていた。
龍介は虚《うつ》ろな気持で天井を見ながら「ばか」声を出してひくく言ってみた。
「ばか!」少し大きくした。そしてその余韻《よいん》をきいてみた。するときゅうに大きく「ばかッ※[#感嘆符二つ、1−8−75]」と怒鳴《どな》りたくなった。
女は無表情な顔をして酒を持って入ってきた。口の欠けた銚子《ちょうし》が二本と章魚《たこ》の酢《す》ものと魚の煮たものだった。すぐあとから別な背の低い唇《くちびる》の厚い女が火を持ってきた。が、火鉢に移すと、何も言わずに出ていった。
寒かった、龍介はテーブルを火鉢の側にもってきて、それに腰をかけて、火鉢の端《はし》に足をたてた。
「行儀がわるい」女は下から龍介を見上げた。
「寒いんだよ。それより、君はこれを敷け」彼は女に座布団を押してやった。が、女は「いいの」と言って、押しかえしてよこした。
「――冷えるぜ」
「どうせねえ」そして、すすめるとまた「いいの」と言った。
「変だな」彼はそう言って、むりに女に敷かせた。
「どうして兄さん敷かないの」座ってからも女はちょっと落着かないように、モジモジした。それから「じゃ、敷くわねえ」と言った。
女は酒をつぐと、
「ハイ」と彼に言った。
「俺は飲まないんだ。君に飲ませるよ」
「どうして?」
「飲みたくないんだ」彼は女の手に盃《さかずき》を持たしてやった。
「ソお」女は今度はすぐ飲んだ。
龍介は注《つ》いでやった。
「本当、いいの?」
「うん」
女はちょっと笑顔《えがお》をしてのんだ。彼は銚子を下に置かずに注いでやった。女は飲むたびに、「本当?」ときいた。
「この章魚《たこ》も、さかなも食っていいんだ」
彼は割箸《わりばし》をわって、皿の上に置いた。
「いいの?――何んだか……」
女は少し顔を赤くして、チラッチラッと二、三度龍介を見上げると、「どうして、兄さん……」と言った。
「俺は食わないんだ。いいから」
「ソお、……なんだか……」
女はさかなを箸の先でつっついて、またひくく「いいの?」と言った。そして、最初箸の先にちょんびり[#「ちょんびり」に傍点]肴を挾《はさ》んで左手の掌《てのひら》にそれを置いて口にもってゆくとき、龍介をちょっとぬすみ見て、身体を少しくねらし、顔をわきにむけて、食べた。彼はすぐまた酒をついでやった。女はまたさかな[#「さかな」に傍点]を食った。章魚の方にも箸をつけた。腹が減っているんだなあ、と彼は思った。
「いくつだ?」
「――年?」眼にちょっとしたしな[#「しな」に傍点]を作って彼を見た。
「うん」
「……十七」
「考えて言えァだめだ」
「本当よ。――十七」
「そうか……章魚がうまいか?」
「…………」返事をしないで女が笑った。
「いつから?……」
「十五から」
「十五?――」
龍介は酒をついでやった。一本の方はもうなくなった。彼は女の目の前で銚子を振ってみせた。女はちょっと肩を縮めて、黙って笑った。
「まだ、あるんだ。安心せ」
彼はもう一本の方を手にもって、「さあ、注いでやるぞ」と言った。そして、「どうしてこんな所へ来たんだ?」ときいた。
女はちょっとだまった。火鉢のふち[#「ふち」に傍点]に両肱《りょうひじ》を立てて、ちょうどさかずき[#「さかずき」に傍点]を目の高さに持っていた女は、口元まで持っていったのをやめて、じっとそれに見入った。両方とも少しだまった。と、女は顔をあげで、
「そんなこときいて何するの?」ときいた。そして、
「イヤ! 私いや!」と言って、頭を振った。
「ききたいんだ」
間。
「どうして?」
「どうしでもさ。金のためにか、すきでか……」
「私言わないもの……」女はきゅうに笑いだした。
「好きで入ったんだろう」彼はちょっと断定的な調子で言った。
「金だわ……でも、……」女は盃を火鉢のふち[#「ふち」に傍点]に置いた。
「でも、どうした?」
女は彼を今度は真正面から見つめて言った。「何をそんなに聞きたがるのさ。……私の家は貧乏だったの。弟妹がまだ四人もいるんだもの。それでさ。……でも、そうねえ、やはり、こうやって、白粉《おしろい》をつけたりしてみ――た――かったの、ねえ、そんなところもあったの」
そう言って、また独りで笑った。
「フン……そうかなあ。それから君らはこういう俺たちを憎いと思ったことはないか」
女はちょっと眼をみはった。
「どうして?」本当に分らないできいているようにそう言った。女は章魚を一つ箸にはさんで口にもっていった。それを口に入れながら、「どうして?」とまた言った。
「君たちの体を……金で……そうだろう?」龍介もそう言いながら赤くなった。
「お客さんだもの……」
女は単純に答えた。龍介はちょっとつまった。
「貞操を金で買うんだよ……」
「そんなこと……」
「へえそんなこと……」彼もちょっとそう言わさった。
「乱暴なお客さんでもなかったら、別になんでもないわ」
「フーン。初めての時はどうだった。恐ろしくなかったか?」
「そうねえ……」女は独りで酒をついで飲んた。「でも、変ねえ、そんなこと、いちいち、なんだか私話すのイヤになった。……」
「大切な女の宝を失《な》くすのだと思って……」
「もう話さないもの」女は彼を見て、クスクス笑いだした。
「話してくれ。――」
「イヤねえ。――そう、初めのうち少し極りが悪かったぐらいよ」
女はブッキラ棒に言って、「もう何も言わないよ。その代り今度来たら話す」
「――もう来ないよ。その手に乗るもんか」
女は女体を振っておおげさに笑った。龍介は不快になった。そして女が酒を飲んだりしているのをだまって腰をかけたまま見下していた。首にぬってあるお白粉がむらになって、かえって汚い、黒い感じを与えた。髪はやはりまだ結っていなかった。ものを食うたびに薄く静脈《じょうみゃく》のすいてみえているコメカミが、そこだけ生きているようにビクビク動いた。
彼は何か言おうとした。が、女がどうしてもピタリしなかった。龍介はその時女の首筋に何か見たように思った。虱《しらみ》だった。中から這《は
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