の前の晩、彼はこの前のようなことがないように、と思い、カフェーへ出かけてみた。女は彼にちょうど手紙を出したところだ、と言い、きゅうにまた明日用事ができて行けなくなったと言った。そして本当に気の毒そうな顔をした。彼はまたむりをして作った次の日のための金をそこで使ってしまった。帰ったのが遅かった。
 二、三日して龍介はまたカフェーへ行った。そして今度の日曜にはぜひ行こうということにきめて帰ってきた。土曜の暮れ方から雨空になった。朝眼をさますと土砂降《どしゃぶ》りだった。龍介はがっかりして蒲団《ふとん》にもぐりこんでしまった。変な夢ばかりを見て、昼ごろに眼をさました。これで三度だめになった。そしてこういうことが、彼の気持をもズルズルにさした。彼はその間ちっとも落ちつけず、何んにも仕事ができなかった。しかし何回ものこういうことが、かえって彼の恵子に対する気持を変にジリジリと強めていった。彼はまた女のところへ出かけていった。女も「今度こそ本当にねえ!」と言った。
 約束の日まで一週間ぐらいあった。その間雨ばかり降った。雪がまじったりした。龍介は天気ばかり気になり夕刊の天気予報で、機嫌よくなったり、不機嫌になったりした。自分でもその自分がとうとう滑稽《こっけい》になった。土曜日から天気が上った。龍介は初めて修学旅行へ行く小学生のような気持で、晩眠れなかった。その日彼は停車場へ行った。彼は朗《ほが》らかな気分だった。が、恵子は来なかった! どうすればいいのか? 龍介は分らなくなった。
 龍介は、ハッキリ自分の恵子に対する気持を書いた長い手紙を出した。ポストに入れるとき、二、三度|躊躇《ちゅうちょ》した。龍介には「ハッキリ」することが恐ろしかった。がこれから先いつまでもこのきまらない気持を持ち続けたら、その方で彼はだめになりそうだった。彼は思いきって、手紙を投げ入れた。そしてハンドルを二、三回廻すと、箱の底へ手紙が落ちる音がした。恵子からの手紙の返事はすぐ来た。冒頭《ぼうとう》に「あなたは遅かった!」そうあった。それによると最近彼女はある男と結婚することに決まっていた。――
「犬だって!」犬だって、これじゃあまり惨《みじ》めだ! 龍介は誇張なしにそう思って、泣いた。龍介は女を失ったということより、今はその侮辱《ぶじょく》に堪えられなかった。心から泣けた。――何回も何回もお預けをしておいてしまいにあかんべい[#「あかんべい」に傍点]、だ! 龍介はこの事以来自分に疲れてきた。すべて自信がもてない。ものをハッキリ決めれない、なぜか、そうきめるとそれが変になってしまうように思われた。
 ……龍介は今暗がりへ身を寄せたとき、犬より劣っている自分を意識した。

     三

 龍介は歩きながら、やはり友だちがほしくなるのを感じた。孤《ひと》りでいるのが恐《こわ》いのだ。過去が遠慮もなく眼をさますからだった。それは龍介にとって亡霊だった。――酒でもよかった。が、酒では酔えない彼はかえって惨めになるのを知っていた。龍介は途中、Sのところへ寄ってみようと思った。
 雪はまだ降っていた。それでも、その通りの両側には夜店が五、六軒出ていた。そしてその夜店と夜店の間々に雪が降っているので立ち寄るものはすくなかった。が二、三カ所|人集《ひとだか》りがあった。その輪のどれからか八木節《やぎぶし》の「アッア――ア――」と尻上りに勘《かん》高くひびく唄が太鼓といっしょに聞えてきた。乗合自動車がグジョグジョな雪をはね飛ばしていった。後に「チャップリン黄金狂時代、近日上映」という広告が貼《は》ってあった。龍介はフト『巴里の女性』という活動写真を思いだした。それにはチャップリンは出ていなかったが、彼のもので、彼が監督をしていた。彼がそれを見たのは恵子とのことが不快に終ったすぐあとだった。彼には無条件にピタリきた。彼は興奮して一週間のうちに三度もそれを見に行った。札売の女が彼を見知り変な顔をした。その写真には、不実ではないが、いかにも女らしい浅薄《あさはか》さで、相手の男と自分自身の本当の気持に責任を持たない女のためにまじめな男がとうとう自殺することが描かれていた。そしてそういう女の弱点がかなり辛辣《しんらつ》にえぐられていた。龍介は自分自身の経験がもう一度そこに経験しなおされていることを感じた。
 彼は歩きながら『黄金狂時代』はぜひ見に行こうと思った。彼がその通りを曲ったとき、ちょうどその角に五、六人の人が立っていた。龍介は通り過ぎる時にちょっと中をのぞいてみた。眼の悪い三十五、六の女が三味線を持って何か言っていた。その前に、十二、三の薄汚《うすぎたな》[#ルビの「うすぎたな」は底本では「うすぎたない」]い女の子がちょっと前に泣いたらしいそのままのしかめた顔をして立っていた。
「この子は!」年増《としま》はバチで子供の肩をついた。「さあ、今度は唄うねえ、いいかい。――可愛いねえ……」そう言って、女は三味線の箱にさわる手首をちょっとつばでしめすと、しゃちこばった手つきで三味線をジランジランとならした。「さあ!」女の子をうながした。そしてア――ア――とすっかりかすれた声で出し[#「出し」に傍点]をつけてやった。
 女の子は両手を袖《そで》の中にひっこめたまま、だまっていた。
「また!」年増はさも歯をかんでいるように言った。
 女の子は本能的になぐられる時のように頭に手をあげた。
「まあ、この子!」年増はいきなり女の子の背を撥《ばち》でついた。女の子は足駄《あしだ》をころばすと、よろよろして、見ていた人の足元にのめった。
 年増は「ええ、どうも、この子にァ、ハア困るんです。へえ、こんなようじゃ二人とも干上りですよ。へへへへへ、どう――して、こんな子を持ったのやら、へえ……」と、頭を時々さげて、立っている人の方を見ながら言った。「こうやってるんですけど、今晩は一文にもならないんですよ――この子が……」
 誰かが金を投げてやった。眼の悪い年増は首をかしげていたが、笑顔をうかべて、二、三度頭をさげた。
「それ! 可哀相だと思ってめぐんでくださったんだ。お礼を言って。お金を……」
 女の子は金を拾って年増の手に渡した。女は受取ると、それを眼の前にかざして、いくらの金かを手ざわりでしらべた。
「へえ、へえ……どうもありがとうございます」
 その時もう一人金をなげた。そして「あんまりいじめるなよ」と言った。彼はそれ以上見ていられなかった。彼は自分が不機嫌に腹の底から興奮してくるのを感じた。雪の降りはひどくなっていた。後から分《わけ》の分らない三味線の音が聞えてきた。
 Sはまだ帰ってきていなかった。Sの妹が、龍介が来たら、画を見て帰ってくれと兄に頼まれたと言った。そして、静物を描いた十二号大のカンバスを持ってきた。Sのお母さんが隣りの室から電燈を引張ってくると画の方にそれを向けて見せた。
「立派です」と龍介は言った。
「どういうもんですかねえ」とお母さんが笑った。
 龍介は外へ出るときゅうに自家へ帰りたくなった。

     四

 汽車はもうなかった。龍介は帰りながら、自分の仕事の上で何かすばらしいことがしたいと思った。彼はいつでもむだにカフェーなどを廻り歩いた帰り、よくそう思って、興奮した。しかしそれが皆いい加減疲れきった頭に、反動的に浮ぶ、いわば空興奮であるように思われ、淋しく感じた。龍介は一つの長篇に手をかけていた。が、彼自身の生活がグラッついていたために、それまで変に焦点が決まらず、でき上らないままに放っておかれた。年々上る月給を楽しみに毎日銀行へ行き、月々いくらかずつか貯金し、おとなしい綺麗《きれい》な細君を貰い、のんきに生活する。そのうちに可愛い子供もできるだろう。そして老後を不自由なく暮す……そこには何ら非難すべき点はない。彼の同僚たちは皆そう考え、そうなるために生活している。しかし、龍介は、そういう生活には大きな罪悪があると思った。もしもこの世の中が完全で、幸福なもので「すべての人がお菓子の食える」境遇にあるものだとしたら、それでいいかもしれない。が、過渡期である。皆は力を合せてまず――まず、そういう世の中になるよう、努力しなければならない時であろう。が、彼らはそんなことには用事がなかった。彼らは「自分だけ」は少し辛抱してゆけば、とにかく幸福になれる「ところ」にいる、好きこのんで不幸になる必要がどこにある! 龍介は多くの人たちが、まじめなおとなしい、相当教養ある世の中の役に立つ立派な人たちと言っているこれらの人々が、案外にも人類歴史の必然的な発展を阻止《そし》するこの上もない冒涜者《ぼうとくしゃ》であると思った。
 龍介はそういう者たちの中にある自分の生活に良心的に苦しんだ。彼は自分ばかりでなく父のない自分の一家の生活を支えるために、この虚偽《きょぎ》の生活に縛られていたのだ。ここからくる動揺が恵子との事にも結びつき、結局、龍介にも何も仕事ができないのだった。
 龍介からはこの生活の意識は離れない。しかし「事実の上で」、ここから一歩も抜きでない以上、それはただの考えとして檻《おり》の中の獅子《しし》のように、頭の中をグルグル廻るにすぎない。龍介はいつものように憂鬱《ゆううつ》になる自分を感じた。そういう気持になる理由がハッキリわかっているだけ、そして「考え」だけの上では結局どうにもぬけでれないということが分っているだけ、たまらなかった。まるで彼には二進《にっち》も三進《さっち》もゆかない地獄だった。そしてこういうことにさんざん苦しくなるといつでも彼は自分でも変に思うほど、かえってでたらめな気持になった。
       *
 少しくると龍介はあやふやな気持で立ち止まった。
 ――彼は自分がズルかったことを意識した。彼は今までちっともこのことには触れずにいながら、潜在意識のようなもので、ここへ来ることを望み、来たのだ。ここは彼のようにルーズな気持を持っているもののくる最後のところだと思うと淋しかった。彼は立ち止まりながら真直ぐ家に帰ろうと考えた。が、彼は昨夜とその前の晩ちょっと寄った女の処へ行ってみたい気持の方が強かった。結局彼はその方へ歩いた。
 道の両側には、「即席御料理」「きそば」と書いた暖簾《のれん》の家が並んでいた。入口に女が立って、通る人を呼んでいた。マントを着た男がそんな所で「交渉」をしている。龍介を見ると暖簾の間から女が呼んだ。彼はそういう所を通り過ぎた。そしてちょっと行くと、一軒だけ離れて、そんな家がぽっちりあった。そこだった。……龍介は二日前ここを通ったのだ。空のはれた寒い晩だった。入口に寄ると、暖簾のところに女がショールをして立っていた。入口は薄暗いので顔立ははっきり分らなかったが、色の白い、十七、八の小柄な女だった。
「寒い」のれんから首を出して龍介がそう言うと、女は、「寒いねえ」と無愛想に言った。
 二人ともちょっと黙った。女は彼をじっと見ていた。
「上るの?」
「金がないんだ」そう言って、「いくらだ」ときいた。
 女は龍介の手をつかむと指を二本握らした。「これだけ……」龍介の眼から女は眼を放さずに言った。
「ない」
 女は龍介の顔にちょっと眼をすえた。それから「うそでしょう?」と言った。
「うそは言わない」
 また女は彼を見た。
「じゃ……」女は一本指を握らしてから、次に五本にぎらした。
「だめだ」龍介はそう言った。
 女はフンといったようにちょっとだまったが、首を縮めて、「寒い」と独言のようにひくくつぶやいた。そして、「いくら持っているの?」ときいた。女は両手を袂《たもと》の中に入れて、寒そうに足駄をカタカタと小きざみにならした。
「景気はどうだ」
「ひッとりも!」案外まじめさを表面に出して言った。彼はその女にちょっと好意を感じた。「お話しにならないの。主人は……不機嫌になるでしょう……ご飯もろくに喰べさせないワ……それに、……」女は頭を二、三度振ってみせて、「ね、ね」と言った。根元のきまらない日本髪がそのたびに前や横にグラグラした。
前へ 次へ
全4ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小林 多喜二 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング