》いでてきたらしかった。首筋を明るいところまでくると、ちょっと迷ったとでもいうふうに方向をかえて、襦袢《じゅばん》の襟《えり》に移った。それから襟の一番頂上まで来ると、また立ち止まった。その時女が箸を机の上におくと今虱が這いでてきたところが、かゆいらしく、顎《あご》を胸にひいて、後首《うしろくび》をのばし、小指でちょっとかいた。龍介はだまっていた。虱はそれから少し今来た方へもどりかけたが、すぐやめて、今度は襦袢と二枚目の着物との間に入っていった。
龍介はポケトから五十銭一枚をとりだして、テーブルの上へ置いた。
「何ァに?」
「髪結賃。この前の……」
そして龍介は「もう帰るよ」と言って立ち上った。女も立ち上った。
「帰ろう」
「そう? ありがとう。じゃまたねえ」
龍介のあとからついてきた女は、そういうと、身体を二、三度ゆすり上げた。彼は何も言わずに外へ出た。出口でもう一度「またねえ、どうぞ」と女が言った。
龍介は外へ出ると興奮してきた。「誰も」「何も」分っていない、と思った。すべてが無自覚からきている。誰も自分の生活を見廻してみるものがないからだ、と思った。惨めだが、しかしあの女たちはちっとも自分のその惨めなことを知っていないのだ。これは恐ろしいことだと思った。彼は何度も雪やぶの中に足をふみ入れた。しかし、同時に彼は自分に対する反省を感じた。ハッキリ何をしなければならないかとかいうことが分っていながら、ちっともきまらない、あやふやな自分が考えられた。どこかで恵子がこの野良犬のようにほっつき廻っている彼を嘲笑《あざわら》っているように思われた。こういう気持の場合恵子のことを思うことだけでも彼はたまらなかった。
前から人が来た。彼とすれちがう時に、ハズミで、どしんと打ち当った。半纒《はんてん》を着た丈の高い労働者だった。彼はちょっと振りかえって見た。男も後を見た。そして「あほう……」と言った。酔っているらしかった。
「ばか野郎※[#感嘆符二つ、1−8−75] どこをウロついてるんだい、この穀《ごく》つぶし※[#感嘆符二つ、1−8−75]]」
しかしそう言ったか、どうか分らない、そう聞いたように思ったその瞬間、彼はきゅうに自分の身体が軽く、ちょっと飛び上ったように感じた。眼がクラクラッとした。そして次の瞬間には龍介は道ばたの雪やぶの中に手をついていた。片方の眼がひどく痛かった。見開くことができなかった。龍介は高いところから落ちた子供が、息がつまって、しばらくの間泣けないでいるように、動かずにじいとしていた。動けなかった。彼はしばらくその恰好のままでいた。
雪が彼の上にかすかな音をさして降っているのを感じた。が、彼はじいとしていた。
底本:「日本文学全集43 小林多喜二 徳永直集」集英社
1967(昭和42)年12月12日発行
※「×」は、底本が用いた伏せ字用の記号です。
入力:林 幸雄
校正:浅原庸子
2005年1月16日作成
青空文庫作成ファイル:
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