》いでてきたらしかった。首筋を明るいところまでくると、ちょっと迷ったとでもいうふうに方向をかえて、襦袢《じゅばん》の襟《えり》に移った。それから襟の一番頂上まで来ると、また立ち止まった。その時女が箸を机の上におくと今虱が這いでてきたところが、かゆいらしく、顎《あご》を胸にひいて、後首《うしろくび》をのばし、小指でちょっとかいた。龍介はだまっていた。虱はそれから少し今来た方へもどりかけたが、すぐやめて、今度は襦袢と二枚目の着物との間に入っていった。
龍介はポケトから五十銭一枚をとりだして、テーブルの上へ置いた。
「何ァに?」
「髪結賃。この前の……」
そして龍介は「もう帰るよ」と言って立ち上った。女も立ち上った。
「帰ろう」
「そう? ありがとう。じゃまたねえ」
龍介のあとからついてきた女は、そういうと、身体を二、三度ゆすり上げた。彼は何も言わずに外へ出た。出口でもう一度「またねえ、どうぞ」と女が言った。
龍介は外へ出ると興奮してきた。「誰も」「何も」分っていない、と思った。すべてが無自覚からきている。誰も自分の生活を見廻してみるものがないからだ、と思った。惨めだが、しかしあの女
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