」女はきゅうに笑いだした。
「好きで入ったんだろう」彼はちょっと断定的な調子で言った。
「金だわ……でも、……」女は盃を火鉢のふち[#「ふち」に傍点]に置いた。
「でも、どうした?」
 女は彼を今度は真正面から見つめて言った。「何をそんなに聞きたがるのさ。……私の家は貧乏だったの。弟妹がまだ四人もいるんだもの。それでさ。……でも、そうねえ、やはり、こうやって、白粉《おしろい》をつけたりしてみ――た――かったの、ねえ、そんなところもあったの」
 そう言って、また独りで笑った。
「フン……そうかなあ。それから君らはこういう俺たちを憎いと思ったことはないか」
 女はちょっと眼をみはった。
「どうして?」本当に分らないできいているようにそう言った。女は章魚を一つ箸にはさんで口にもっていった。それを口に入れながら、「どうして?」とまた言った。
「君たちの体を……金で……そうだろう?」龍介もそう言いながら赤くなった。
「お客さんだもの……」
 女は単純に答えた。龍介はちょっとつまった。
「貞操を金で買うんだよ……」
「そんなこと……」
「へえそんなこと……」彼もちょっとそう言わさった。
「乱暴なお客さんでもなかったら、別になんでもないわ」
「フーン。初めての時はどうだった。恐ろしくなかったか?」
「そうねえ……」女は独りで酒をついで飲んた。「でも、変ねえ、そんなこと、いちいち、なんだか私話すのイヤになった。……」
「大切な女の宝を失《な》くすのだと思って……」
「もう話さないもの」女は彼を見て、クスクス笑いだした。
「話してくれ。――」
「イヤねえ。――そう、初めのうち少し極りが悪かったぐらいよ」
 女はブッキラ棒に言って、「もう何も言わないよ。その代り今度来たら話す」
「――もう来ないよ。その手に乗るもんか」
 女は女体を振っておおげさに笑った。龍介は不快になった。そして女が酒を飲んだりしているのをだまって腰をかけたまま見下していた。首にぬってあるお白粉がむらになって、かえって汚い、黒い感じを与えた。髪はやはりまだ結っていなかった。ものを食うたびに薄く静脈《じょうみゃく》のすいてみえているコメカミが、そこだけ生きているようにビクビク動いた。
 彼は何か言おうとした。が、女がどうしてもピタリしなかった。龍介はその時女の首筋に何か見たように思った。虱《しらみ》だった。中から這《は》いでてきたらしかった。首筋を明るいところまでくると、ちょっと迷ったとでもいうふうに方向をかえて、襦袢《じゅばん》の襟《えり》に移った。それから襟の一番頂上まで来ると、また立ち止まった。その時女が箸を机の上におくと今虱が這いでてきたところが、かゆいらしく、顎《あご》を胸にひいて、後首《うしろくび》をのばし、小指でちょっとかいた。龍介はだまっていた。虱はそれから少し今来た方へもどりかけたが、すぐやめて、今度は襦袢と二枚目の着物との間に入っていった。
 龍介はポケトから五十銭一枚をとりだして、テーブルの上へ置いた。
「何ァに?」
「髪結賃。この前の……」
 そして龍介は「もう帰るよ」と言って立ち上った。女も立ち上った。
「帰ろう」
「そう? ありがとう。じゃまたねえ」
 龍介のあとからついてきた女は、そういうと、身体を二、三度ゆすり上げた。彼は何も言わずに外へ出た。出口でもう一度「またねえ、どうぞ」と女が言った。
 龍介は外へ出ると興奮してきた。「誰も」「何も」分っていない、と思った。すべてが無自覚からきている。誰も自分の生活を見廻してみるものがないからだ、と思った。惨めだが、しかしあの女たちはちっとも自分のその惨めなことを知っていないのだ。これは恐ろしいことだと思った。彼は何度も雪やぶの中に足をふみ入れた。しかし、同時に彼は自分に対する反省を感じた。ハッキリ何をしなければならないかとかいうことが分っていながら、ちっともきまらない、あやふやな自分が考えられた。どこかで恵子がこの野良犬のようにほっつき廻っている彼を嘲笑《あざわら》っているように思われた。こういう気持の場合恵子のことを思うことだけでも彼はたまらなかった。
 前から人が来た。彼とすれちがう時に、ハズミで、どしんと打ち当った。半纒《はんてん》を着た丈の高い労働者だった。彼はちょっと振りかえって見た。男も後を見た。そして「あほう……」と言った。酔っているらしかった。
「ばか野郎※[#感嘆符二つ、1−8−75] どこをウロついてるんだい、この穀《ごく》つぶし※[#感嘆符二つ、1−8−75]]」
 しかしそう言ったか、どうか分らない、そう聞いたように思ったその瞬間、彼はきゅうに自分の身体が軽く、ちょっと飛び上ったように感じた。眼がクラクラッとした。そして次の瞬間には龍介は道ばたの雪やぶの中に手をついていた。片方の眼が
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