おいてしまいにあかんべい[#「あかんべい」に傍点]、だ! 龍介はこの事以来自分に疲れてきた。すべて自信がもてない。ものをハッキリ決めれない、なぜか、そうきめるとそれが変になってしまうように思われた。
……龍介は今暗がりへ身を寄せたとき、犬より劣っている自分を意識した。
三
龍介は歩きながら、やはり友だちがほしくなるのを感じた。孤《ひと》りでいるのが恐《こわ》いのだ。過去が遠慮もなく眼をさますからだった。それは龍介にとって亡霊だった。――酒でもよかった。が、酒では酔えない彼はかえって惨めになるのを知っていた。龍介は途中、Sのところへ寄ってみようと思った。
雪はまだ降っていた。それでも、その通りの両側には夜店が五、六軒出ていた。そしてその夜店と夜店の間々に雪が降っているので立ち寄るものはすくなかった。が二、三カ所|人集《ひとだか》りがあった。その輪のどれからか八木節《やぎぶし》の「アッア――ア――」と尻上りに勘《かん》高くひびく唄が太鼓といっしょに聞えてきた。乗合自動車がグジョグジョな雪をはね飛ばしていった。後に「チャップリン黄金狂時代、近日上映」という広告が貼《は》ってあった。龍介はフト『巴里の女性』という活動写真を思いだした。それにはチャップリンは出ていなかったが、彼のもので、彼が監督をしていた。彼がそれを見たのは恵子とのことが不快に終ったすぐあとだった。彼には無条件にピタリきた。彼は興奮して一週間のうちに三度もそれを見に行った。札売の女が彼を見知り変な顔をした。その写真には、不実ではないが、いかにも女らしい浅薄《あさはか》さで、相手の男と自分自身の本当の気持に責任を持たない女のためにまじめな男がとうとう自殺することが描かれていた。そしてそういう女の弱点がかなり辛辣《しんらつ》にえぐられていた。龍介は自分自身の経験がもう一度そこに経験しなおされていることを感じた。
彼は歩きながら『黄金狂時代』はぜひ見に行こうと思った。彼がその通りを曲ったとき、ちょうどその角に五、六人の人が立っていた。龍介は通り過ぎる時にちょっと中をのぞいてみた。眼の悪い三十五、六の女が三味線を持って何か言っていた。その前に、十二、三の薄汚《うすぎたな》[#ルビの「うすぎたな」は底本では「うすぎたない」]い女の子がちょっと前に泣いたらしいそのままのしかめた顔をして立っていた。
「この子は!」年増《としま》はバチで子供の肩をついた。「さあ、今度は唄うねえ、いいかい。――可愛いねえ……」そう言って、女は三味線の箱にさわる手首をちょっとつばでしめすと、しゃちこばった手つきで三味線をジランジランとならした。「さあ!」女の子をうながした。そしてア――ア――とすっかりかすれた声で出し[#「出し」に傍点]をつけてやった。
女の子は両手を袖《そで》の中にひっこめたまま、だまっていた。
「また!」年増はさも歯をかんでいるように言った。
女の子は本能的になぐられる時のように頭に手をあげた。
「まあ、この子!」年増はいきなり女の子の背を撥《ばち》でついた。女の子は足駄《あしだ》をころばすと、よろよろして、見ていた人の足元にのめった。
年増は「ええ、どうも、この子にァ、ハア困るんです。へえ、こんなようじゃ二人とも干上りですよ。へへへへへ、どう――して、こんな子を持ったのやら、へえ……」と、頭を時々さげて、立っている人の方を見ながら言った。「こうやってるんですけど、今晩は一文にもならないんですよ――この子が……」
誰かが金を投げてやった。眼の悪い年増は首をかしげていたが、笑顔をうかべて、二、三度頭をさげた。
「それ! 可哀相だと思ってめぐんでくださったんだ。お礼を言って。お金を……」
女の子は金を拾って年増の手に渡した。女は受取ると、それを眼の前にかざして、いくらの金かを手ざわりでしらべた。
「へえ、へえ……どうもありがとうございます」
その時もう一人金をなげた。そして「あんまりいじめるなよ」と言った。彼はそれ以上見ていられなかった。彼は自分が不機嫌に腹の底から興奮してくるのを感じた。雪の降りはひどくなっていた。後から分《わけ》の分らない三味線の音が聞えてきた。
Sはまだ帰ってきていなかった。Sの妹が、龍介が来たら、画を見て帰ってくれと兄に頼まれたと言った。そして、静物を描いた十二号大のカンバスを持ってきた。Sのお母さんが隣りの室から電燈を引張ってくると画の方にそれを向けて見せた。
「立派です」と龍介は言った。
「どういうもんですかねえ」とお母さんが笑った。
龍介は外へ出るときゅうに自家へ帰りたくなった。
四
汽車はもうなかった。龍介は帰りながら、自分の仕事の上で何かすばらしいことがしたいと思った。彼はいつでもむだにカフェーなどを廻
前へ
次へ
全9ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
小林 多喜二 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング