り歩いた帰り、よくそう思って、興奮した。しかしそれが皆いい加減疲れきった頭に、反動的に浮ぶ、いわば空興奮であるように思われ、淋しく感じた。龍介は一つの長篇に手をかけていた。が、彼自身の生活がグラッついていたために、それまで変に焦点が決まらず、でき上らないままに放っておかれた。年々上る月給を楽しみに毎日銀行へ行き、月々いくらかずつか貯金し、おとなしい綺麗《きれい》な細君を貰い、のんきに生活する。そのうちに可愛い子供もできるだろう。そして老後を不自由なく暮す……そこには何ら非難すべき点はない。彼の同僚たちは皆そう考え、そうなるために生活している。しかし、龍介は、そういう生活には大きな罪悪があると思った。もしもこの世の中が完全で、幸福なもので「すべての人がお菓子の食える」境遇にあるものだとしたら、それでいいかもしれない。が、過渡期である。皆は力を合せてまず――まず、そういう世の中になるよう、努力しなければならない時であろう。が、彼らはそんなことには用事がなかった。彼らは「自分だけ」は少し辛抱してゆけば、とにかく幸福になれる「ところ」にいる、好きこのんで不幸になる必要がどこにある! 龍介は多くの人たちが、まじめなおとなしい、相当教養ある世の中の役に立つ立派な人たちと言っているこれらの人々が、案外にも人類歴史の必然的な発展を阻止《そし》するこの上もない冒涜者《ぼうとくしゃ》であると思った。
 龍介はそういう者たちの中にある自分の生活に良心的に苦しんだ。彼は自分ばかりでなく父のない自分の一家の生活を支えるために、この虚偽《きょぎ》の生活に縛られていたのだ。ここからくる動揺が恵子との事にも結びつき、結局、龍介にも何も仕事ができないのだった。
 龍介からはこの生活の意識は離れない。しかし「事実の上で」、ここから一歩も抜きでない以上、それはただの考えとして檻《おり》の中の獅子《しし》のように、頭の中をグルグル廻るにすぎない。龍介はいつものように憂鬱《ゆううつ》になる自分を感じた。そういう気持になる理由がハッキリわかっているだけ、そして「考え」だけの上では結局どうにもぬけでれないということが分っているだけ、たまらなかった。まるで彼には二進《にっち》も三進《さっち》もゆかない地獄だった。そしてこういうことにさんざん苦しくなるといつでも彼は自分でも変に思うほど、かえってでたらめな気持になった。
       *
 少しくると龍介はあやふやな気持で立ち止まった。
 ――彼は自分がズルかったことを意識した。彼は今までちっともこのことには触れずにいながら、潜在意識のようなもので、ここへ来ることを望み、来たのだ。ここは彼のようにルーズな気持を持っているもののくる最後のところだと思うと淋しかった。彼は立ち止まりながら真直ぐ家に帰ろうと考えた。が、彼は昨夜とその前の晩ちょっと寄った女の処へ行ってみたい気持の方が強かった。結局彼はその方へ歩いた。
 道の両側には、「即席御料理」「きそば」と書いた暖簾《のれん》の家が並んでいた。入口に女が立って、通る人を呼んでいた。マントを着た男がそんな所で「交渉」をしている。龍介を見ると暖簾の間から女が呼んだ。彼はそういう所を通り過ぎた。そしてちょっと行くと、一軒だけ離れて、そんな家がぽっちりあった。そこだった。……龍介は二日前ここを通ったのだ。空のはれた寒い晩だった。入口に寄ると、暖簾のところに女がショールをして立っていた。入口は薄暗いので顔立ははっきり分らなかったが、色の白い、十七、八の小柄な女だった。
「寒い」のれんから首を出して龍介がそう言うと、女は、「寒いねえ」と無愛想に言った。
 二人ともちょっと黙った。女は彼をじっと見ていた。
「上るの?」
「金がないんだ」そう言って、「いくらだ」ときいた。
 女は龍介の手をつかむと指を二本握らした。「これだけ……」龍介の眼から女は眼を放さずに言った。
「ない」
 女は龍介の顔にちょっと眼をすえた。それから「うそでしょう?」と言った。
「うそは言わない」
 また女は彼を見た。
「じゃ……」女は一本指を握らしてから、次に五本にぎらした。
「だめだ」龍介はそう言った。
 女はフンといったようにちょっとだまったが、首を縮めて、「寒い」と独言のようにひくくつぶやいた。そして、「いくら持っているの?」ときいた。女は両手を袂《たもと》の中に入れて、寒そうに足駄をカタカタと小きざみにならした。
「景気はどうだ」
「ひッとりも!」案外まじめさを表面に出して言った。彼はその女にちょっと好意を感じた。「お話しにならないの。主人は……不機嫌になるでしょう……ご飯もろくに喰べさせないワ……それに、……」女は頭を二、三度振ってみせて、「ね、ね」と言った。根元のきまらない日本髪がそのたびに前や横にグラグラした。
前へ 次へ
全9ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小林 多喜二 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング