の意味が分らず、き[#「き」に傍点]真面目に云った。
専務が「社民党」から市会議員に出るという噂を森本がきいたことがあった。そんな話を持ち出してきたのも矢張り佐伯だった。その時、森本は、
――じゃ、社民党ッて誰の党なんだ。「労働者の党」ではないのか。
と云った。
佐伯が顔色を動かした。そして
――共産党ではないさ。
と云ったことがある。
会社では、職工たちが左翼の労働組合に走ることを避けるために、内々佐伯たちを援助して、工場の中で少し危険と見られている職工を「労働総同盟」に加入させることをしていた。それは森本たちも知っている。――然しその策略は逆に「H・S」の専務は実に自由主義的だとか、職工に理解があって、労働組合にワザ/\加入さえさせているとか――そういうことで巧妙に隠されていた。それで働いている多くの職工たちは、その関係を誰も知っていなかった。工場の重だった分子が、仮りに「社民系」で固められたとすれば、およそ「工場」の中で、労働者にどんな不利な、酷な事が起ろうと、それはそのまゝ通ってしまう。分りきったことだった。――森本は其処に大きな底意[#「底意」に傍点]を感ずることが出来る。会社がダン/\職工たちに対して、積極的な態度をもってやってきている。それに対する何かの用意[#「何かの用意」に傍点]ではないか? ――彼はます/\その重大なことが近付いていることを感じた。
彼はまだ「工場細胞」というものゝ任務を、それと具体的には知っていない。然し彼は今までの長い工場生活の経験と、この頃のようやく分りかけてきたその色々な機構《しくみ》のうちに、自分の位置を知ることが出来るように思った。――
――で、この機会に、工場の中にも社民党の基礎を作ろうと思うんだ。……仕上場の方にも一通りは云ってきた。――その積りで頼むぜ。
佐伯はそれだけを云うと、トロッコ道を走って行った。走って行きながら、ブリキを積んだトロッコを押している女工の尻に後から手をやった。それがこっちから見えた。女がキャッ! とはね上って、佐伯の背を殴《な》ぐりつけた。
――ぺ、ぺ、ぺ!
彼はおどけた恰好に腰を振って、曲がって行った。
佐伯は労働者街のT町で、「中心会」という青年団式の会を作っていた。その七分までが「H・S」の職工だった。彼は柔道が出来るので、その会は半分その目的を持っていた。道場もあった。「H・S会社」から幾分補助を貰っているらしかった。何処かにストライキが起ると、「一般市民の利益のために」争議の邪魔をした。精神修養、心神錬磨の名をかりて、明かにストライキ破りの「暴力団」を養成していたのだ。会社で「武道大会」があると、その仲間が中心になった。
森本は職場へ下りて行きながら、自分の仕事の段取と目標が眼の前に、ハッキリしてくるのを感じた。
その日家へ帰ってくると、河田の持って来た新聞包みのパンフレットが机にのっていた。歯車の装幀《そうてい》のある四五十頁のものだった。
[#ここから2字下げ]
・「工場新聞」
・「工場細胞の任務とその活動」
[#ここで字下げ終わり]
表紙に鉛筆で「すぐ読むこと」と、河田の手で走り書してあった。
十三
――女が入るようになると、気をつけなければならないな。運動を変にしてしまうことがあるから。
河田がよく云った。――で、森本もお君と会うとき、その覚悟をしっかり握っていた。
「石切山」に待ってゝもらって、それから歩きながら話した。
胸を張った、そり身のお君は男のような歩き方をした。工場で忙がしい仕事を一日中立って働いている女工たちは、日本の「女らしい」歩き方を忘れてしまっていた。――もう少し合理的に働かせると、日本の女で洋服の一番似合うのは女工かも知れない、アナアキストの武林が、武林らしいことを云っていた。
工場では森本は女工にフザケたり、笑談口も自由にきけた。然し、こう二人になると、彼は仕事のことでも仲々云えなかった。一寸云うと、まずく吃《ども》った。淫売を買いなれていることとは、すっかり勝手がちがっていた。小路をつッ切って、明るい通りを横切らなければならないとき、彼はおかしい程|周章《あわ》てた。お君が後《うしろ》で、クッ、クッと笑った。――彼は一人先きにドンドン小走りに横切ってしまうと、向い小路で女を待った。お君は落付いて胸を張り、洋装の人が和服を着たときのように、着物の裾をパッ、パッとはじいて、――眼だけが森本の方を見て笑っている――近付いて来た。肩を並べて歩きながら、
――森本さん温しいのね。
とお君が云った。
――あ、汗が出るよ。
――男ッてそんなものだろうか。どうかねえ……?
薄い浴衣《ゆかた》は円く、むっつりした女の身体の線をそのまゝ見せていた。時々肩と肩がふれた。森本はギョッとして肩をひいた。
――のどが乾いた。冷たいラムネでも飲みたい。何処かで休んで、話しない?
少し行くと、氷水《こおり》店があった。硝子のすだれ[#「すだれ」に傍点]が凉しい音をたてゝ揺れていた。小さい築山におもちゃの噴水が夢のように、水をはね上げていた。セメントで無器用に造った池の中に、金魚が二三匹赤い背を見せた。
――おじさん、冷たいラムネ。あんたは?
――氷水にする。
――そ。おじさん、それから氷水一ツ。
森本を引きずッて、テキパキともの[#「もの」に傍点]をきめて行くらしい女だと分ると、彼はそれは充分喜んでいゝと思った。彼はこれからやっていく仕事に、予想していなかった「張り」を覚えた。
――で、ねえ……。
のど[#「のど」に傍点]仏をゴクッ、ゴクッといわせて、一息にラムネを飲んでしまうと、又女が先を切ってきた。
――途中あんたから色々きいたことね、でも私ちがうと思うの。……会社が自分でウマク宣伝してるだけのことよ。女工さんは矢張り女工さん。一体女工さんの日給いくらだと思ってるの。それだけで直ぐ分ることよ。
お君は友達から聞いた「芳ちゃん」のことを、名前を云わず彼に話してきかせた。
――友達はその女が不仕鱈《ふしだら》だという。でも不仕鱈ならお金を貰う筈がないでしょう。悪いのは一家四人を養って行かなければならない女の人じゃなくて――一日六十銭よりくれない会社じゃない? ――あんただって知ってるでしょう。会社[#「会社」に傍点]をやめて、バアーの女給さんになったり、たまには白首《ごけ》になったりする女工さんがあるのを。それはね、会社をやめて、それからそうなったんでなくて、会社のお金だけではとてもやって行けないので、始めッからそうなるために会社をやめるのよ。――会社の人たちはそれを逆に[#「逆に」に傍点]、あいつは堕落してそうなったとか、会社にちアんと勤めていればよかったのにと云いますが、ゴマかしも、ゴマかし!
森本は驚いて女を見た。正しいことを、しかもこのような鋭さで云う女! それが女工である!
――女工なんて惨めなものよ。だから、可哀相に、話していることってば、月何千円入る映画女優のこととか、女給や芸者さんのことばかり。
――そうかな。
――それから一銭二銭の日給の愚痴《ぐち》。「工場委員会」なんて何んの役にも立ったためしもないけれども、それにさえ女工を無視してるでしょう。
――二人か出てるさ。
――あれ傍聴よ。それも、デクの棒みたいに立ってる発言権なしのね。
――ふウん。
――氷水お代り貰わない?
――ん。
――あんた仕上場で、私たちの倍以上も貰ってるんだから、おごるんでしょう。
お君は明るく笑った。並びのいゝ白い歯がハッキリ見えた。森本はお君の屈託のない自由さから、だんだん肩のコリ[#「コリ」に傍点]がとれてくるのを覚えた。お君はよく「――だけのこと」「――という口吻《こうふん》。」それだけで切ってしまったり、受け答いに「そ」「うん」そんな云い方をした。それだけでも、森本が今迄女というものについて考えていたことゝ凡《およ》そちがっていた。――こういうところが、皆今迄の日本の女たちが考えもしなかった工場の中の生活から来ているのではないか、と思った。
――会社を離れて、お互いに話してみるとよッく分るの。皆ブツ/\よ。あんた「フォード」だからッて悲観してるようだけれども、私各係に一人二人の仲間は作れるッて気がしてるの。――女ッて……
お君がクスッと笑った。
――女ッて妙なものよ。一たん方向だけきまって動き出すと、男よりやってしまうものよ。変形ヒステリーかも知れないわね。
――変形ヒステリーはよかった。
森本も笑った。
彼は河田からきいた「方法」を細かくお君に話し出した。するとお君はお君らしくないほどの用心深い、真実な面持で一々それをきいた。
――やりますわ。みんなで励げみ合ってやりましょう!
お君は片方の頬だけを赤くした顔をあげた。
氷水屋を出て少し行くと、鉄道の踏切だった。行手を柵が静かに下りてきた。なまぬるく風を煽《あお》って、地響をたてながら、明るい窓を一列にもった客車が通り過ぎて行った。汽罐《ボイラー》のほとぼりが後にのこった。――ペンキを塗った白い柵が闇に浮かんで、静かに上った。向いから、澱んでいた五六人がすれ違った。その顔が一つ一つ皆こっちを向いた。
――へえ、シャンだな。
森本はひやりとした。それに「恋人同志」に見られているのだと思うと、カアッと顔が赤くなった。
――何云ってるんだ。
お君が云いかえした。
彼女は歩きながら、工場のことを話した。……顔が変なために誰にも相手にされず、それに長い間の無味乾燥な仕事のために、中性のようになった年増の女工は小金をためているとか、決して他の女工さんの仲間入りをしないとか、顔の綺麗な女工は給料の上りが早いとか、一人の職工に二人の女工さんが惚れたたゝめに、一人が失恋してしまった、ところが失恋した方の女工さんが、他の誰かと結婚すると、早速「水もしたゝる」ような赤い手柄の丸髷《まるまげ》を結って、工場へやって来る、そしてこれ見よとばかりに一廻りして行くとか、日給を上げて貰うために、職長《おやじ》と活動写真を見に行って帰り「そばや」に寄るものがあるとか、社員が女工のお腹を大きくさせて置きながら、その女工が男工にふざけられているところを見付けると、その男と変だろうと、突ッぱねたことがあるとか……。
坂になっていて、降りつくすと波止場近くに出た。凉み客が港の灯の見える桟橋近くで、ブラブラしていた。
――林檎、夏蜜柑、梨子《なし》は如何《いかが》ですか。
道端の物売りがかすれた声で呼んだ。
――林檎喰べたいな。
独言のように云って、お君が寄って行った。
他の女工と同じように、お君も外へ出ると、買い喰いが好きだった。――お君は歩きながら、袂《たもと》で真赤な林檎の皮をツヤ/\にこすると、そのまゝ皮の上からカシュッ[#「カシュッ」に傍点]とかぶりついた。暗がりに白い歯がチラッと彼の眼をすべった。
――おいしい! あんた喰べない?
林檎とこの女が如何にもしっくりしていた。
――そうだな、一つ貰おうか……。
――一つ? 一つしか買わないんだもの。
女は堪《こ》らえていたような笑い方をした。
――……人が悪いな。
――じゃ、こっち側を一噛《ひとかじ》りしない?
女はもう一度袂で林檎を拭《ぬぐ》うと、彼の眼の前につき出した。
彼はてれ[#「てれ」に傍点]てしまった。
――じゃ、こっち?
女は悪戯らしく、自分の噛った方をくるりと向けた。
――……。
――元気がないでしょう。じゃ、矢張りこっちを一噛り。
彼は仕方なく臆病に一噛りだけした。
其処から「H・S工場」が見えた。灰色の大きな図体は鳴りをひそめた「戦闘艦」が舫《もや》っているように見えた。
この初めての夜は、森本をとらえてしまった。彼はひょっとすると、お君のことを考えていた。彼はそれに別な「張り」を仕事に覚えた。それがお君から来ているのだと分ると、彼はうしろめいた気
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