檎の皮をツヤ/\にこすると、そのまゝ皮の上からカシュッ[#「カシュッ」に傍点]とかぶりついた。暗がりに白い歯がチラッと彼の眼をすべった。
――おいしい! あんた喰べない?
林檎とこの女が如何にもしっくりしていた。
――そうだな、一つ貰おうか……。
――一つ? 一つしか買わないんだもの。
女は堪《こ》らえていたような笑い方をした。
――……人が悪いな。
――じゃ、こっち側を一噛《ひとかじ》りしない?
女はもう一度袂で林檎を拭《ぬぐ》うと、彼の眼の前につき出した。
彼はてれ[#「てれ」に傍点]てしまった。
――じゃ、こっち?
女は悪戯らしく、自分の噛った方をくるりと向けた。
――……。
――元気がないでしょう。じゃ、矢張りこっちを一噛り。
彼は仕方なく臆病に一噛りだけした。
其処から「H・S工場」が見えた。灰色の大きな図体は鳴りをひそめた「戦闘艦」が舫《もや》っているように見えた。
この初めての夜は、森本をとらえてしまった。彼はひょっとすると、お君のことを考えていた。彼はそれに別な「張り」を仕事に覚えた。それがお君から来ているのだと分ると、彼はうしろめいた気
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