めに、中性のようになった年増の女工は小金をためているとか、決して他の女工さんの仲間入りをしないとか、顔の綺麗な女工は給料の上りが早いとか、一人の職工に二人の女工さんが惚れたたゝめに、一人が失恋してしまった、ところが失恋した方の女工さんが、他の誰かと結婚すると、早速「水もしたゝる」ような赤い手柄の丸髷《まるまげ》を結って、工場へやって来る、そしてこれ見よとばかりに一廻りして行くとか、日給を上げて貰うために、職長《おやじ》と活動写真を見に行って帰り「そばや」に寄るものがあるとか、社員が女工のお腹を大きくさせて置きながら、その女工が男工にふざけられているところを見付けると、その男と変だろうと、突ッぱねたことがあるとか……。
 坂になっていて、降りつくすと波止場近くに出た。凉み客が港の灯の見える桟橋近くで、ブラブラしていた。
 ――林檎、夏蜜柑、梨子《なし》は如何《いかが》ですか。
 道端の物売りがかすれた声で呼んだ。
 ――林檎喰べたいな。
 独言のように云って、お君が寄って行った。
 他の女工と同じように、お君も外へ出ると、買い喰いが好きだった。――お君は歩きながら、袂《たもと》で真赤な林檎の皮をツヤ/\にこすると、そのまゝ皮の上からカシュッ[#「カシュッ」に傍点]とかぶりついた。暗がりに白い歯がチラッと彼の眼をすべった。
 ――おいしい! あんた喰べない?
 林檎とこの女が如何にもしっくりしていた。
 ――そうだな、一つ貰おうか……。
 ――一つ? 一つしか買わないんだもの。
 女は堪《こ》らえていたような笑い方をした。
 ――……人が悪いな。
 ――じゃ、こっち側を一噛《ひとかじ》りしない?
 女はもう一度袂で林檎を拭《ぬぐ》うと、彼の眼の前につき出した。
 彼はてれ[#「てれ」に傍点]てしまった。
 ――じゃ、こっち?
 女は悪戯らしく、自分の噛った方をくるりと向けた。
 ――……。
 ――元気がないでしょう。じゃ、矢張りこっちを一噛り。
 彼は仕方なく臆病に一噛りだけした。
 其処から「H・S工場」が見えた。灰色の大きな図体は鳴りをひそめた「戦闘艦」が舫《もや》っているように見えた。
 この初めての夜は、森本をとらえてしまった。彼はひょっとすると、お君のことを考えていた。彼はそれに別な「張り」を仕事に覚えた。それがお君から来ているのだと分ると、彼はうしろめいた気がした。――そして、もう自分は、河田の注意していることに陥入りかけているのではないか、とおもった。

          十四

 どれもこれもロク[#「ロク」に傍点]な職工はいない、みんなマヒ[#「マヒ」に傍点]した奴ばかりだとか――又彼等も外からはそう見えたということは、本当ではなかった。「フォード」と云っても、矢張り労働者は労働者位しかの待遇を受けていないのだ。たゞ、どっちを向いても底の知れない不景気で動きがとれないので、とにかくしがみついて[#「しがみついて」に傍点]いなければならなかったし、それに彼等は矢張り「Yのフォード」だという自己錯覚の阿片にも少しは落とされていた。
 ――会社を離れて話してみると、皆ブツ、ブツよ。
 お君が云ったことがある。これは当っていた。たゞ、いくらそんな工合でも、彼等は誰かゞ口火を切ってくれる迄は待っているものだ、ということだった。
 森本は今迄は親しい仲間と会っても、工場の問題とか、政治上の話などをしゃべったことがなかった。それは仲のよかった石川が組合に入るようになってからだった。それまでの彼は見習からタヽキ上げられた、女工の尻を追ったり、白首を買ったり、女の話しかしない金属工でしかなかった。――然し、今度彼がその変った意識で以前のその仲間に話しかけると、不思議なことには、その同じ猥談《わいだん》組の仲間とは思われない答を持ってやってきた。それを見ても、今迄誰も彼等のうちにある意識にキッカケを与えなかったことが分る。彼等は皆自分の生活には細かい計算[#「細かい計算」に傍点]を持っていた。一日一銭のこと、会社の消費組合で買うするめ[#「するめ」に傍点]の値が五厘高いというので、大きな喧嘩になるほどの議論をするのだ。
 月々の掛金や保険医の不親切と冷淡さで、彼等は「健康保険法」にはうんざりしていた。そればかりか、「健保」が施行されてから、会社は職工の私傷のときには三分の二、公傷のときには全額の負担をしなければならないのをウマク逃れてしまっていた。「健保は当然会社の全負担にさせなければならない性質《たち》のもんだ。」――誰にも教えられずに、職工はそう云っていた。
「工場委員会」も職工たちには「狸ごッこ」だとしか思われていない。「おとなしい」「我ン張りのない」職工を会社が勝手にきめて、お座なりに開くそんな「工場委員会」に少しも望みを
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